2023年の写真と本

去年、その年の写真と本を振り返る記事(2022年の写真と本)を年末に書いてみた。写真と本をフックに文章を紡いでみると、色々と思い返すことができたので、今年もやってみることにした。

既に日本では年が明けてしまっている。だけど、今いるスペインでは、まだ年が明けていない。なので、年内ギリギリセーフということにしておいてくださいな。

読んだ本

今年読んで良かった本を記録してみる。今年は124冊の本を読んだらしいけど、年末へ近付くにつれて、読書量が減ってきた感じがある。ここ最近は生活が落ち着かず、やはり落ち着いた生活の土台が読書に関わってくるようで、そして移動時間に本をよく読むから、移動が多かった時期は読書量も連動して増えていく。こうやってまとめてみると、「この本が今年なのか!」というぐらい、自分の中に染み渡って、むしろどこかに行ってしまったような本が多かったりして驚く。

今年は愛について学んだ年だった。詩を楽しめるようになった。俳句や短歌に触れるようになって、自分でも詠むようにもなった。新しく読み出した漫画は、「違国日記」だけだったけど、ほんとにバイブルとして、心にいつでも閉まっておきたい漫画となった。来年はどんな本を読むのだろう。普段読まないジャンルの本も読んでいきたい。

  • なんらかの事情(岸本佐知子)
  • 死ぬまでに行きたい海(岸本佐知子)
  • 山學ノオト2(2020)(青木真兵、青木海青子)
  • くらしのアナキズム(松村圭一郎)
  • 役に立つ古典(学びのきほん)(安田登)
  • 人生があなたを待っている 『夜と霧』を越えて(ハドン・ジュニア・クリングバーグ)
  • あなたを選んでくれるもの(ミランダ・ジュライ)
  • 山學ノオト3(2021)(青木真兵、青木海青子)
  • 若き詩人への手紙・若き女性への手紙(リルケ)
  • どこにも属さないわたし(イケムラレイコ)
  • 悲しみの秘義(若松英輔)
  • チッソは私であった:水俣病の思想(緒方正人)
  • わたしを空腹にしないほうがいい(くどうれいん)
  • たいのおかしら(さくらももこ)
  • 岡潔 数学を志す人に(岡潔)
  • まともがゆれる(木ノ戸昌幸)
  • 詩のこころを読む(茨木のり子)
  • サラダ記念日(俵万智)
  • 「聴く」ことの力(鷲田清一)
  • 共有地をつくる(平川克実)
  • くもをさがす(西加奈子)
  • 思いがけず利他(中島岳志)
  • 人間の建設(小林秀雄、岡潔)
  • 「待つ」ということ(鷲田清一)
  • 東大8年生 自分時間の歩き方(タカサカモト)
  • 旋回する人類学(松村圭一郎)
  • 聞くこと、話すこと。(尹雄大)
  • 愛(苫野一徳)
  • 詩を書くってどんなこと?(若松英輔)
  • 自分の中に孤独を抱け(岡本太郎)
  • 話す写真:見えないものに向かって(畠山直哉)
  • 職業としての小説家(村上春樹)
  • うたうおばけ(くどうれいん)
  • 現代思想入門(千葉雅也)
  • 数学する人生(岡潔)
  • 愛について/愛のパンセ(谷川俊太郎)
  • 教養としての俳句(学びのきほん)(青木亮人)
  • 10年目の手記:震災体験を書く、よむ、編みなおす(瀬尾夏美)
  • 傷を愛せるか(宮地尚子)
  • 茨木のり子詩集(茨木のり子)
  • 応答、しつづけよ。(ティム・インゴルド)
  • 方丈記(鴨長明)
  • 死ぬまで生きる日記(土門蘭)
  • 植物考(藤原辰史)
  • 他者と生きる(磯野真穂)
  • 歴史の屑拾い(藤原辰史)
  • こころの対話 25のルール(伊藤守)
  • 家族(村井理子)
  • 50歳からの性教育(村瀬幸浩)
  • ケアしケアされ、生きていく(竹端寛)
  • 14歳の教室 どう読みどう生きるか(若松英輔)
  • 違国日記(ヤマシタトモコ)

撮った写真

今年はフィルム熱が戻ってきて、数年ぶりにフィルムで撮るようになった。「Yashica Electro 35 GX」という、お気に入りのフィルムカメラも手に入れた。フィルムって楽しいんだよな。数年前にフィルムを始めたときの気持ちを思い出した。

今まで、スマホで撮るのはメモのためでしかなかった。そう思っていると、フィルムのように、規定の枚数が来るまでは撮った写真が見られなくて、仕上がりもフィルム風になる、「EE35 Film」というカメラアプリを知った。このアプリで写真を撮ると、たとえスマホだろうが、”自分の写真”として認識するようになった。自身の固まっていた凝りが解れたようだった。

撮り方もかなり変わったと思う。「写すこと」という記事で書いたように、肩の力が抜けたというか、想定できないものを引き受けようとしてみると、撮る・撮らないではなく、目の前に立ち現れてきたものを撮ってみる感じになった。初めて人の写真から直接影響を受ける出来事もあった。

ただ、「いや、もっと”いい感じ”の写真は全然撮れるんですけどね」と謎の言い訳をしたくなるときもあって、見せ方にはまだ戸惑うことが多い。どのような写真であれ、誰かに見られるときは、思いがけず自身を代表してしまうこともあれば、そういった見方をせず、じっくりと他の写真を見てくれる人もいる。こうして、むず痒いような誰かからの目線が、気になってしまうときもある。来年は、そういった戸惑いすら観察して、そして撮っていきたい。

光と影には、どうしても目を向けてしまう。心情の変化なのか。とある人からの影響であるのか。恩人が自分の写真に対して、「光と影」という言葉で表して、同時に受け取ってくれたことが、心底嬉しかった。そして、それは自身の中で成熟を待っていたテーマでもあり、来年以降も捉え続けるものであるような気がしている。

待つことが嫌ではなくなってきた。数年越しに現像したフィルムには、懐かしい思い出たちが写っていた。フィルムが楽しい今は、どうしても頻繁に現像してしまうが、こうして時間を経て、写真を見返す楽しみもあるんだと気付いた。

歩くことも好きになった。共に歩いてくれるという行為は、何よりも嬉しいことなのかもしれない。「共存」という言葉を何度も言及するようになってきた。

生活が落ち着くと、花を買えるものなんだな。あれだけみずみずしかったチューリップが、最後にこういう姿になって枯れていくので、「儚さ」というものを体感した気がした。

「この人はこうだ」と、あらゆる場面で決めつけたくなるとき、人はそれぞれ異なる固有の存在であるということを忘れている。そして、「人それぞれ」で終わらせることは、決してしたくないとも確かに思う。

車の運転は、やっぱり一人ではしたくない。交通ルールは、人を攻撃的にさせる社会システムだと思う。でも、誰かと乗り合う車は、すぐに楽しい空間となる。誰かとのドライブはいつだって楽しい。だからこそ、一人で運転することが環境にはならないようにしていきたい。ただ、バイクはやっぱり楽しいんだよなぁ。

家を転々とするが、生活の壁、そして文字通りの壁(の薄さ)に悩まされる。人と共に生きることは、苦労が尽きなかった。その中でも季節は変わっていき、日常に溢れているものに気付いたりして、苦しくも幸せな瞬間を味わった。

楽しい時間はすぐに過ぎ去り、また新たな生活が始まっていく。ただ暮らすだけなのに、どうしてこうも複雑なことばかりなのか。複雑さは成熟と聞くが、シンプルなやり取りで足りることは、果たしてないのだろうか。

人の多さは疲弊に繋がるが、それだけ色々な人が生きていて、どれだけ狭いと思える隙間にも居場所を見つけ出せるし、日々何かを作ろうとする人たちの力強さに気付かされる。

東京が好きだ。「自然だってあるよ」と、計算されて敷き詰められたような緑を指差して言う。人工的であるというのは、「自然物ではない」と果たして言えるのだろうか。

今年は動物のいる家に泊まることが多かった。ペットは未経験だったけど、犬と仲良くなるコツは掴めた気がする。「触る」ではなく「触れる」のような行為は、どのような相手とも共有できるのではないかと希望を抱いてしまう。

福島に滞在する期間が長くて、そのポテンシャルというか、知らなかった部分に驚く。広大な場所に細々とある道をみると、「この道を作った人たちがいるのか」と思いを馳せてしまう。山の中にある鉄塔とかも、どうやって運んだんだろうとか思う。

とにかく生活のことばかり考えた年だった。どのような関係性の人でも、誰かと生活をシェアするということは難しい。「もうマジで知らん」と思うことは何度もあった。人間は一緒に暮らすことに向いてないんと違うか。そう思って、ふらふらしていると、どうしたって問い直しが始まってしまって、共存の道を探るほかなかった。

写真は選定 / 剪定であり、数多くの撮った写真が、現像されず、現像されたものも誰かの目に触れることもなく、静かに存在していたりする。ただ、それでも思いがけない枝が伸びてくる。「どうしたって」は、諦めに近い喜びかもしれない。

「ああもうほんとに」と思っても、ヤギに遠くからじっと見つめられているように、問いが立ち現れてきたりする。でも、ほんとに、日々の生活が大変だった。自分にとっての暮らしは何なのか。「熊出没注意!」の警告色の看板を恐れながら、散歩を繰り返した。

バイクに身の回り全ての荷物を積んで移動していると、なんだか旅人みたいだ。何の計画もなく、衝動で買ってしまったバイクが、ついに命を握るライフラインとなってしまった。スペインへ来ると決めたとき、手放そうとしたが、結局できなかった。今はどうしているだろうか。順調にガソリンが腐っているだろうか。道中、調子に乗りすぎて、ほんとに危うくということもあり、やはり車道は合っていないと感じた。

「人と共存していくこと」を考え始めたのは、夏の気仙沼への旅ぐらいからだろうか。まさに、手を伸ばして連れ出されてしまったという旅で、本来は参加するはずではなかったのだが、人に助けられて、訪れる流れとなった。今こうして異国で暮らしている自分に、確実に繋がっている出来事でもあり、それでもそのぐらい濃かったことも、どうしようもなく変化していくものなのだと思った。

体力とスピードが、力比べのために使われないこともあるのだと知った。人からたくさん受け取ったことは、現状がつらいときに、思い出すことになったりして、悪意の連鎖を止められるような気がしてくる。

白湯は、水を美味しくなくさせた液体だった。過去の出来事は、美化されるものではあるけれど、いつだって捉え直してみると、また思い出すら変わっていくもので、だからこそ、そのとき自分が感じたことを大事にしたらいいんじゃないかと思えた。

2024年2月18日の「オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム」、行きたかったなぁ。まさか、抽選が外れるとはね。ほんとに行きたかった。スペインから一時帰国して行くつもりだったのに。でも、外れたときに、きっと行く流れじゃなかったんだろうと思った。それはファンとしての自己防衛でもあるようだが、その分、他の体験に充てようと納得できた。当たった人には、何か貰いたいけどね。オンライン配信してくれないかなぁ。

スペインに住み始めた。住んでしまったという感じだ。家探しが難航し、家が決まるまで、実物を見ることを取っておいたサグラダ・ファミリアだが、思っていたより感動しなかった。以前来たことがあるとはいえ、どうしても生活の不安定さに、気分が左右されるところがある。観光客で混雑する街の中心地より、外れのエリアを散策するのが好きになった。

家があるというのは、とても穏やかで、素晴らしく感じた。歩いている景色の全てが美しく、家での静かな時間が、至福のときであった。でも、穏やかさというのも、夕焼けの時間のようにすぐに過ぎ去ってしまうもので、広い意味での「自宅」に関することは、もしかしたら、自身の命題であるのかもしれないと思った。

熱狂と静けさ。リラックスという状態について、学んだことがあった。この国にいて、そしてこのバルセロナは、騒がしくもあり、どうも居心地が良く、その正体を突き止めたいと思いつつ、もどかしくも言葉を尽くせない。またしても待つように、じっと観察してみようと思う。

暮らしている街を歩き回って、交通網やエリアを把握していくのが楽しい。それでも、多少なりとも知った気にはなれないぐらい、街には何かが溢れていて、何かが巻き起こっている。それに気付くのが、なぜ今だったのか。そして、それを面白がれるのは、きっと今までの点を手繰り寄せるように、生活のことを考えざるを得なかった年だったからだろう。

家、家、家。美と地。ついに、バルセロナを離れることになった。大変なことだらけだが、もう少ししたら、「そんなこともあったなぁ」と思えることは確実で、それでもなんとか生き延びるようとする、たくましさを自身に感じる。来年、そして再来年のことも考える。きっと想定外だらけだとしても、考えてみる。悩むのではなく、考える。

日本酒と揚げ出し豆腐、というバルセロナで食べるには、最高すぎる組み合わせに熱くなりながらも、パフォーマンスをするカッコ良さに圧倒される。パフォーマンスとは、芸術だけではなくて、きっと誰しもに関わることなような気がした。人と関わってみることは、不確定要素を増やすことになるが、それはどこかわからない場所に引き出されることでもあり、怖がりながらも続けていきたい。来年も生きていく勇気を受け取った。「またバルセロナに帰ってきてね」と、軽い気持ちだとしても、誰かに言ってもらえたのは嬉しかった。こういうことを忘れないように、生きていきたいと思った。

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大晦日の夜に思い出して書き始めてみたけど、なんとか年内(スペインの)に間に合った。これから年越しをしてくる!

それでは、良いお年を〜!