写すこと

写真に対する捉え方が変わってきた。決してこれからずっと同じ形を保つのではなく、きっと漂うように、ゆるりと変化していくのだろうけど、書き残しておきたい。

長い間、理由ありきの写真を撮っていたように思う。撮りたい対象を事前に調べておいて、それを撮る。綺麗なものがあると聞いて、撮りに行く。綺麗じゃないものは、”綺麗じゃない”から、あまり撮らない。

「〜だから撮る」というように、理由もなく撮ることを避けていた。それに対して、良し悪しを判断できるものではないと思う。ただ、ずっと何かを失うことが怖かったのかもしれない。思いがけない事態が起こることで、自身の土台が崩れていくことを恐れていた。

だからこそ、理由があって、多少なりとも想定のできる写真だと安心できたのだろう。基準にそぐわないものは、撮らなければいい。「撮らないことは、何も写さないこと」だと信じ切っていた。

ただ、想定外は、いつだって起こり得る。自身とそこに絡み合う現象に含まれた、”ままならなさ”によって、得体の知れないものが立ち現れて、形作られていく。

写真だけではない。こういった”ままならなさ “を、自分はずっと恐れていた。だが、そういった得体の知れなさを観察してみようと思い始めると、思わず笑ってしまうほど、清々しく歓迎できるときが、確かにあった。

恐れは、今も抱いている。だが、ぐるぐると螺旋を描く、”ままならなさ”を引き受けてみようとしたとき、恐れは手放すものではなく、共に生きるものなのだと思った。

そして、”ままならなさ”を歓迎する態度が、思いがけず、写真に繋がってきたのだった。

もはや、「撮るもの」と「撮らないもの」に選別する作業が、自分にとっての写真ではないのだろう。目の前に立ち現れてきたものを待ち、観察してみる。その記録を写す先として、写真だったり、書くことだったり、誰かとの対話だったり、本を読んだり、または自身に留めることであったり。

理由が必要な写真は、救いでもあり、呪縛でもあった。写真は好きで、かけがえのないものである。だからこそ、安心して、すがるような対象でありたかったのだろう。

だけど、”ままならなさ”と写真が繋がったとき、写真を撮ることだけが、写すことではないのだと思った。そう思うと、決して緩められないと思っていた手綱が緩んだ。

自分にとっての写真は、わかり得る対象ではなくなってしまった。ただ、緩んだおかげで、観察がしやすくなり、余白が生まれてきた。その余白によって、怖さと共に生き、”ままならなさ”を歓迎してみるだけの隙間ができたのだと思う。

写すことが、写真だけではなくなると、もう手に負えない。どうなるかわからない。想定外を回避するか、受け入れるかではなく、「もう引き受けるか〜」という諦めで、笑ってしまうような感覚だ。

恐れていたものを引き受けると、意外と軽やかなものだった。この軽やかさも、いつかずっしりと重くなり、自身の崩れていく土台を見つめることになるのだろう。これから立ち現れてくるものが、怖くもあり、愉快でもある。