2022年の写真と本

今年は好きな「本」にたくさん出会えた。同時に、アイデンティティだと固執していた「写真」に対して、”呪縛”のように感じたりする場面もあった。最初は好きでやってたのに、いつの間にか比較や評価を気にしてしまう。

きっと流れゆくままになるんだろうけど、また新しい年が始まるからこそ、今年はどんな写真を撮り、どんな本を読んだのか、まとめて記録しておきたくなった。

読んだ本

今年読んで、特に好きだった本をまとめてみる。読書会ができた本も多くて、自分で辿り着いたり、色んな方から教えてもらったりで、本がさらに好きになった。今年は193冊読んだらしく、いい本に巡り合えた一方で、あんまりだった本も多かったかもしれない。本はたとえ今読めなくても、いつか読むときが来ると言ったりするが、読まないだろうという本もある。本は無数に存在していて、さらに毎日新しい本が生まれてくる。だからこそ、読む本のジャンルに偏りを作りたくないと思いつつ、人生で読める本の総数を考えてみると、好みの本をひたすら読み続けたいとも思ってしまう。

  • 未来をつくる言葉(ドミニク・チェン)
  • 聞く技術 聞いてもらう技術(東畑開人)
  • 「普通がいい」という病(泉谷閑示)
  • コンパッション・マインド・ワークブック(クリス・アイロン、エレイン・バーモント)
  • 手づくりのアジール(青木真兵)
  • 本が語ること、語らせること(青木海青子)
  • 自分の中に毒を持て(岡本太郎)
  • 愛するということ(エーリッヒ・フロム)
  • はみだしの人類学(松本圭一郎)
  • ヒトの壁(養老孟司)
  • 村上春樹、河合隼雄に会いにいく(村上春樹、河合隼雄)
  • 生きがいについて(神谷美恵子)
  • つながり過ぎないでいい 非定型発達の生存戦略(尹雄大)
  • 水木サンの幸福論(水木しげる)
  • 愛と家族を探して(佐々木ののか)
  • 手の倫理(伊藤亜紗)
  • からだとこころの健康学(学びのきほん)(稲葉俊郎)
  • 食べることと出すこと(頭木弘樹)
  • こころの処方箋(河合隼雄)
  • 文豪お墓まいり記(山崎ナオコーラ)
  • ねにもつタイプ(岸本佐知子)
  • もものかんづめ(さくらももこ)
  • 水中の哲学者たち(永井玲衣)
  • できることならスティードで(加藤シゲアキ)
  • 一〇三歳、ひとりで生きる作法(篠田桃紅)
  • おまじない(西加奈子)
  • 一人称単数(村上春樹)
  • 流浪の月(凪良ゆう)
  • 蕎麦湯が来ない(せきしろ、又吉直樹)
  • HI, HOW ARE YOU?(綾部祐二)
  • やっぱりおおかみ(佐々木マキ)
  • 共感という病(永井陽右)
  • 夜と霧(ヴィクトール・E・フランクル)
  • 継続するコツ(坂口恭平)
  • 香山哲のプロジェクト発酵記(香山哲)
  • モモ(ミヒャエル・エンデ)
  • ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた(斎藤幸平)
  • 料理と利他(土井善晴、中島岳志)
  • ブルーピリオド(山口つばさ)
  • 葬送のフリーレン(山田鐘人、アベツカサ)
  • 呪術廻戦(芥見下々)

撮った写真

寒い日の早起きほど、面倒なものはないけど、寒い日の早起きほど、良いものはない。行く前から「きれい」だと確定しているところであっても、そのとき心が動いたのならば、その人にとっての「うつくしさ」に変わるんだと思う。

今、”隠れ”絶景スポットがどんどん消えている。今、”気軽に行ける”絶景スポットがどんどん増えている。壮大な景色に没入する感覚は心地良くて、誰にも渡したくない景色というものはある。自身が何を思うのかは抑制できないが、今のように様々な場所へのアクセスが容易になってくると、実際、景色を独占することなどできない。そうして、景色というものの積み重ねを想像してみるが、やっぱり途方もなくわからない。だけど、それでいいのだと思う。

和紙の印刷にハマった。いいお値段。ほんとにいいお値段。でも、お値段以上は確か。手触りがいい。触れられる作品って良いと思う。和紙の手触りはふわふわしていて、この水中の描写と合う感じがある。

「地元」という場所は、変わりゆくようで、でも同時に、代わり映えしないと思ってしまう。だからこそ、地元を撮ってみたいという気持ちが初めて芽生えた。超田舎ではあるが、山奥すぎるわけでもないのに、ほんとに店が一軒もなくて、田んぼしかない。通ったというお店の思い出がない。駄菓子屋はかろうじてあったが、どこも潰れてしまった。地元という場所がまたわからなくなってしまったが、こうして写真を撮ることで、新たな思い出ができたように思えた。

春。それは、ライダーたちが土の中から一斉に飛び出し、桜を背景にバイクを並べて写真を取り出す季節。花粉がメットの中にこびりつき、くしゃみは止まらずとも、その習慣を忘れることはない。

和歌山。改めて、その漢字に注目してみると、「和歌」と「山」が合わさっていて、なんだかカッコいいなと思う。巡礼というのは、自分からは遠すぎる行為ではあるけど、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は、いつか歩いてみたいと思ったりする。この熊野古道の巡礼路も、いつか歩いたりする日は来るのだろうか。

暮らしていた大阪で、段々と好きなエリアが決まってくる。「大阪って大きい川が多いよね」って大阪人に言ったら、間髪入れずに「水の都やからね」と言われた。「そんないいもんじゃないだろう」と笑いながらも、自然に自分たちを良いように言ってしまうところが、妙にいとしく思う。

アーティスト・イン・レジデンスで金沢に滞在しているとき、「誰かいるかな?」と思って、作品制作の部屋に行ったら、誰もいないということが、何度かあった。その制作途中の抜け殻みたいな部屋の雰囲気になんだか惹かれてしまった。完成した各アーティストの作品は、どれも感慨深いものであった。

川沿いを歩くのが好きだ。足早に通り過ぎる学生。犬と散歩しているおじいちゃん。狭い道を通る軽トラ。いつか、散歩道があるような川が流れている街、そしてできればその川の近くに暮らしてみたい。けど、虫とかはすごいんだろうか。川沿いの窪みに座って、ビールを飲んでいる人がいると、「ここはいい川沿いだ」と思う。

自然の中にいるのが好きで、ボーッとその場に入り込んでしまうような感覚に陥ることがある。だけど、あまりにも濃密な自然の中にいると、少しだけ怖くなってしまうことがある。そういった気持ちは何なのだろう。単純に、ハチとクマとイノシシが怖いというのはあるけど。

岡本太郎の作品展に軽い気持ちで行ってみたら、絵の前で立ち尽くしてしまった。アートを見て、初めての経験だった。そうなってしまうと、大阪に住んでいたこともあり、衝動的に「太陽の塔」を見に行ってみた。デカい。あまりにもデカい。東京の会社で働いていた何年も前、出張で来たついでに見た記憶があるけど、その記憶よりもデカい。絶対前よりもデカくなってる。太陽の塔の中に入れるようになっていたので、入ってみると、腕の中に”未来”があった。これはほんとに”未来”としか表現できない。気になる人はぜひ入ってみてほしい。

「写真を撮る」という行為を根底から問い直す出会いがあった。まずは、”ただ撮ってみる”という練習をしてみる。と思いながらも、被写体として”イージー”な猫を撮ってしまう。「写真なんて何を撮ってもいいんだ」という反抗心のような気持ちは常にあって、だけど、いつからか「何を撮るか」ばかりを考えるようになっていたようだった。そうして撮ったものに、お化粧を塗り重ねていく感じがあった。だからって、「日常」を気軽に撮ればいいと簡単に決めつける話でもない。悩ましいと思う。わからない。

「エモい写真」と表現できる写真は心底嫌で、そんなもの撮りたくないと思ってしまうが、「エモい感じですよね」と言われてしまって、「まぁ実際そう見えますよね」と自分でも思ってしまう。ただ撮っているだけなんだけどな。求められるものに、寄せようとしてしまっているのか。もう、人の写真を見るのはやめたいなと思った。見なければ存在していないのと同じだ。いや、そんなことはない。きっと「エモいのが嫌だ」というのも、表層だけを見ようとしてしまっている。撮ることが、もどかしい。

「笑顔でお願いしまーす」のときの顔。たまに撮られる側になって、そう言われたりすると、「いや、笑えるかーい」って感じだ。でも、撮る側が焦ってそう言いたくなる気持ちはわかる。”自然な笑顔”の裏には、”自然な声かけ”という技術があって、その”自然さ”を引き出すための戦略は、果たして”自然な写真”と言えるのだろうか。一見わからないものだけど。

スーツを着たおじさんというのは、どこかのメーカーが尖った企画として、ガチャガチャに出すほど、コレクション要素のある存在だと思う。同じなようで、同じじゃない。平日朝の有楽町に集まるスーツ集団を見て思う。「人を普遍性の中に押し込めるスーツは怖い」と友人に言ったら、「かっこいいじゃん」とあっさり言われた。確かにスーツはカッコいいよね。

タバコを吸う人を撮りたいがために、タバコを始めようかと悩んでいる。芸人のネタでタバコを扱うことが増えてような気がして、それだけもはや「タバコを吸う」という行為は、世間的におもしろいものだとされてしまっているんだろうか。タバコを吸う人の罪悪感のようなものは、人間らしくて愛しいじゃないかと思う。

意図して撮ったと思えるような写真が、実は意図されていなかったりする。森山大道の「三沢の犬」のように、それを受け取った人が、あれこれと意味を見出すように、「なんとなく」というものの力を忘れたくないと思った。

「木彫やってみたんだけど、めっちゃ良くてさ」が口癖になっている。いや、ほんとにめっちゃ良くてね。先人たちの論理や知恵があるとは思いつつ、自分の実感や体験を大事にしたいとも思う。そして、その実感をなんとか言葉を尽くしてみることがおもしろく、そうすることで、より深く自身に根ざすものになるのだと思う。

撮って、残す。力を抜く感じ。今年は自分の撮った写真が好きであったり、つらくもあったりした。もどかしさが残る。どうして、もどかしさを感じるんだろう。これは来年の大きな問いになるだろうと思う。来年はどういった写真を撮っていくのか、自身に少しだけ期待をしてみたいと思う。

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ふと思い立って、写真と本のまとめを書いてみたけど、結構楽しかった。無数の写真の中から何枚かを選択していく作業はおもしろくもあり、でもそれが必ずしも自身の1年を代表するわけでもなかったりで、どのような基準を自身で設けているのか、そういった内面を観察していくことも同時に興味深いものであった。

それでは良いお年を!