「まぁお茶でも飲んでいきなよ」って言いたい。

“はたらくこと”を見つめ直してみると、「まぁお茶でも飲んでいきなよ」って言う役割を担いたい、と思い始めた。

「お茶」は比喩というか、「ゆっくりと一息つく」という口実であって、誰しもが、安心して問い続けられる場所を作ってみたいなぁと思ったのだ。「対話」と「聞くこと」が、じわりと混ざり合うような場所。

こじんまりした範囲で、何度でも捉え直しができる。そういう場所であれば、自分も誰かに「ゆっくりしていきなよ」と言える気がする。

場所とは言ったけど、実店舗やオンラインとか具体的な形ではなくて。そうなるかもしれないけど。もっと抽象的な概念みたいなことだ。なんだか、自分にとっての”はたらく”と繋がるような気がして、じっくり掴んでいきたいと思った。

まず、「話を聞く」というのは、真剣に聞くのではなく、ただ、「ほ〜」とお茶を飲みながら、相槌を打つような感じだ。じっくりと待つように、でも張り詰めたようでもなく、無理をしていない聞き方。

たとえば、「モモ(ミヒャエル・エンデ)」の主人公モモのように。質問や話の引き出し方が優れているのではなく、ただそこにすとんと居るだけで、意外と思いがけないことが生まれてきたりするものだ。

自分の大切な人が、まさにモモのような存在だった。おそらく、本人が無理をしていない態度だからこそなんだと思う。真剣に聞きすぎてしまうと、どこかで「真剣であること」自体が目的になってしまいやすい。

だからこそ、”お茶を手渡すように”話を聞き、対話を生み出していく役割を担ってみたい。なんて言うのだろう。「お茶渡し」とでも呼んでみよう。そこで、お茶を飲みにきた人が、問い続けるきっかけが生まれたらいいなと思う。

「お茶渡し」を思い付いたきっかけは、「忙しさ」に対する疑念だった。忙しさに囚われて、余白がなくなると、問い続けること自体がどんどん難しくなっていく。

たとえば、SNSの情報の波に流れて、日々人との関わり続けていくと、自身の感覚を捉えて、問い続けるってことが、至難の技に思えてくる。だからこそ、興味に没頭することで、発見が生まれる余白が生まれやすくなる。

没頭は清々しく、ときに周囲の音が消えていくような感覚に陥る。それだけで、生きている実感が生まれて、その探求の道は果てしなく楽しい。

ただ、没頭することもまた、「忙しさ」だと言える。没頭することで、感覚知を発見していくつもりが、今度は今までのものでは満足できなくなり、大なり小なりの創造と破壊を繰り返してしまう。

没頭していくと、その対象との距離が段々と近くなってきて、観察できる余白がなくなってくる。さらに、その対象が社会的・経済的価値と一致してしまうと、さらに忙しさは加速する。

段々と自身の感覚を蔑ろにして、社会的・経済的価値で良し悪しを判断するようになる。その物差しが悪いのではなく、それ”だけ”になってしまうと、人の素直ささえ、見失ってしまうのではないか。気持ちを表明することすら、ためらうようになるのではないか。

だからこそ、忙しさや没頭から離れてみて、その”ためらい”を話せる場所がいるのだと思う。そんな人たちに、お茶を渡したい。そして、一緒にお茶を飲んでみたい。

無理をせず、気楽に”はたらくこと”をしていたい。気楽さが薄れてくると、おもしろいものもおもしろくなくなる。

社会的・経済的価値を否定などできない。既に自分たちに深く絡み合っているものだ。だからこそ、俺は社会的・経済的価値からこぼれ落ちるところを補いたいし、その輝きを見てみたいのだと思う。

自分が好きになってしまう人たちの特徴があって、それは「人間くささが漏れ出てしまっている人」だ。彼らは自身の没頭感と価値の剥離に苦悩し、それでも素直に自分を見ようとする。そういった”うしろめたさ”を抱えて生きている。

おそらく、人がもつ素直さと社会を繋げるのが、ユーモアだと思っていて、そこの余地を探求していきたいのだろう。

「お茶渡し」と「経済」という関係性は、無理に繋げなくてもいいのだと思う。完全に分離させる必要もないけど、こういった”はたらくこと”の意味を、もっと広く捉えておきたい。

ここまで「働く」という言葉の漢字をひらいて、「はたらく」と表現してきた。働くというと、生存のための金銭取引、または利他精神を含む社会的意義、といった印象を自分の場合は持ってしまう。

だけど、”はたらくこと”は、もっと広義的なことで、生きることと等しい活動であってほしいと思った。人やそれ以外の物事と、共に生きていく方法を常に探究していたい。だからこそ、”はたらく”にびっしりと絡みついている、社会的・経済的価値という枠を捉え直すための「お茶渡し」でもあるのだ。

とはいえ、生きるためにお金を賄う必要がある。いや、お金を介さない生き方というのは可能で、その中でお金を使って生きていたりする。お金が悪者ではない。その付き合い方は、模索してみたい。

「お茶渡し」によって、 「誰かの役に立ちたい」わけじゃない。かといって、「自分だけのために」やりたいわけじゃない。どちらも混ざっているけど、どちらでもないような淡い。

「あなたと私」という出発点ではあるが、きっとその範疇を超えた先にある、淡いをじっくりと知っていきたいのだと思う。おそらく、「世界のわからなさをわからないままであり続けられる場所」を作りたいのだろう。

誰しも忙しいのは嫌だし、気楽に生きたいと思っているのかもしれない。現実では難しいから、苦しいんじゃないかと。確かに。だけど、だからこそ、その淡いを探究していく余地は、まだまだあるじゃないかと思う。

こういった「お茶渡し」を出発点としてみると、何が見えてくるのだろうか。意識的に探しに行くというより、探求を続けていくと、立ち現れてくるものがあるんだろう。

すぐに形になるというより、数年ぐらい掛かったりするかもしれない。またや、意外にバシッと思い付いたりするのだろうか。

ずっと書き続けてきた文章を「カイエ」として、日記のような形式で公開してみた。目的のある写真を撮らなくなってきた。コミュニティに入り、あらゆる人たちとの対話会や読書会に参加したり、開いたりしてみた。「秘密結社喫煙所」という、文通を始めてみた。「共存人類学研究会」という、謎の研究会を作ってみた。これらが、「お茶渡し」なのかはわからない。とりあえず、よくわからなくて、めっちゃ楽しい。

どうなるか想定外だ。ただ、”はたらくこと”は、ずっと問い続けてみたいテーマであり、共にもがいてくれる仲間と、思いがけず出会うことを楽しみにしている。もし少しでも気になる人がいたら、一緒にお茶を飲みましょう〜

実際に本物のお茶を出すことになったら、銘柄にこだわったりするんだろうか…