剥がれ落ちるように書きつける

書くことは、自身が剥がれ落ちるように、「書く」というよりは、「書きつける」という行為であるように思う。

あるとき、自身がどうしても”とっておきたかった”ものが、失われてしまったと感じることがあった。

たとえば、芥川龍之介は「自分は文学を、つまり創作を自分の一生の仕事として選んだが、そう決めて、東京の町はずれを歩いていたとき、雨の水たまりがあって、電線が垂れさがり、紫の火花を出していた。そのとき自分は、他の何ものを捨てても、この紫の火花だけはとっておきたいと思った(岡潔 数学を志す人に)」と言った。まさに自分は、この”紫の火花”を失ったようだった。

そのとき、確かに「望んだ形の自分は死んだ」と思った。遠い存在であった”死”というものを、初めて身近に感じた。死にたくなったわけではなくて。ただ、望んだ形の自分という存在は、既に死んでしまった。どうしようもなく、死んでしまった。だから、これからの自分は、望んだ形にならなかったという自分は、どうしても”とっておきたかったもの”を弔いながら、それでも生きていくのだと思った。

自分で書いた文章を読み直したとき、「へーなるほどねぇ」と新鮮に感じるときがある。もちろん、なんとなく覚えているのだけど、まるで誰かが書いた文章のように、自身で納得してしまったりする。

そういうときを振り返ると、確かに自身がそこに剥がれ落ちているなぁと感じる。書くというより、「書きつけた」という実感が伴う。ある意味で、そのときの自分は既に死んでしまったが、確かにそこに宿っている。そう感じるときがある。

だから、書くことは救いでもある。楽しいとき、つらいとき、そのときの感情はどうしようもないものだったりする。だけど、その感情、熱量、出来事は、自身で書くことができる。何を書くのか、書かないのか。本当のことを書くのか、望むことを書くのか。過ぎ去ってしまうものを、望む形の自分が死んでしまっても、書くことはできる。それはどれだけ救いになることだろうか。

ずっと、この場で書いている雑記のような短い文章を日記に書いていた。どこにも出す予定はなく、自身で読み返すことも少ない、何のためかわからない文章。もはや「書いている」という認識すらなかった。ただのメモだと。長い間、自分にとっての書くことは、誰かに見られる「記事」として書くことと同意義だったから。

もしかしたら、書くことと見せることは全く別であるのに、まとめて考えすぎているのかもしれない。書くことは、書いてしまったら、既にそこに存在している。たとえ、誰にも見られるものでなくとも、確かに存在している。

だからこそ、その雑記を写真と組み合わせて、このサイトで細々と公開している。それらが溜まってきたら、初めてのZINEにしてみようかと思っている。

この雑記を「公開する」という行為に、自身が納得するまで、すごく大変だった。だって、自分にとって、剥がれ落ちるように書きつけた文章は、誰にも見せなくとも、そこに存在しているわけで、わざわざ見せる理由がない。見せるということは、やっぱり書くことからは独立しているんだと思う。

日記を書いてZINEにしている人が、「書くことは奉納だ」と笑いながら言っていて、確かに書いたものを公開するときは、人に届けたい気持ちより、何かに明け渡すというか、隙間のようなところに刺しこむような感覚があるような気がする。

書くと見せるは別であるからこそ、誰にも見られることのない文章の存在を認めたい、なかったことにしたくないと思う。

自分が美しいと感じる文章は、「孤独」という深い海に潜って書いたような印象を受けるものであった。

そのような文章は、自分のために書いたわけでもなく、かといって誰かのためでもなく、そのどちらの要素も含みながらも、どこかに置くような気持ちであったのではないかと思っている。

自分を深く見つめて、孤独という声を聞き、静寂とともに書いた文章は、その人にとって、認めがたいほど素直な文章が生み出されるはずで、誰にも見せずにとっておくことだってできる。だけど、それを誰かに見られる場所に置くとき、何かしらの「祈り」が込められるのではないだろうか。

他者からの目線を背負った文章は、ほんとに、ほんとに好きではない。祈りを含んで置かれた文章と他者目線を背負う文章、そのラインの境界線は曖昧ではあるけれど、きっとその人の孤独がどう形作られているかによって、自分が美しさを感じるところが決まるのだと思っている。

たとえば、「こんなことを思ってしまったみたいです」と自分自身で途方に暮れている。その場所に”すとん”と存在してしまっている。そういった気持ちで、その場に置いておくような文章は、自身の孤独を探求している過程を一緒に見させてもらっているようで、ほんとに好きだし、その美しさに救われるような気持ちになる。

そういった好きな書き手たちは、『「損するぐらいの気持ちで」「自身の全てを投げるように」「誰にも言えないようなことを」「世界と差し違えるように」「殺す気で」書くのだ』とそれぞれ表現していた。

なんとなく共通点がありそうだけど、「等身大の自分を曝け出す勇気を持つ」というニュアンスで、これらの言葉を受け取りはしなかった。

ただ、自身の素直さというものは、ときに目を背けたくなるようなものだったりして、それを誰かに見てもらうという認識があると、その素直さを歪めようとしてしまう。だからこそ、孤独の海を深く潜っていけばいくほど、ただそこにあったものを淡々と書く。書くしかないという気持ちになるのだと思うから。

素直さは無理に出すものではない。淡々と書くことは誰にだってできると信じている。だからこそ、剥がれ落ちてきたものを観察して、書きつけてみようと思っている。