トップレス・サピエンス

握手をするのが、自分は好きなんだとスペインに来て気が付いた。それはどんな人も、握手を求めて手を差し出すと、思わず嬉しそうな顔をしたりするからだ。

腕を組むようなノリの握手より、目の前の相手を見つめながら手を差し出して、穏やかに、でもギュッと相手の存在を確かめるように手を握るプレーンな握手が好きだ。これからこの人との関係性が始まる、というようなふつふつと嬉しくなるような気持ちが湧いてくる。

日本で握手をすることは少なかった。では、スペインは握手(というかハグまで)する”文化”で、日本は握手をしない”文化”と言えるのだろうか。

このスペインでの暮らしを通して、そういった”文化”というものの境界を確かめているような感覚がある。

スペインで得た経験を、「日本と比べてスペインはこうだから良い」とか、反対に「スペインはここが良くないよね日本より」と、単純に比較して言ってしまうこともできるけど、なんだかそういった物言いはあまり好きではなく、もう少し解像度を高めて、現環境を捉えてみたいと常々思っている。

おそらく、自分は納得することに時間を要するというか、時間を掛けたいのかもしれない。多くの人が文化だからと片付けしまうことに、自分は納得できなかったりする。

経験したことを、整理して概念をこしらえて、「これはこう言うんですよ」と理解した気になる。それは知識がある人かもしれないけど、知恵がある人だとは思えない。ホモ・サピエンスではない。そうやって枠に気付いたりしながらも、自分たちの理解から溢れるものが存在すると思いつつ、その中で戸惑い、立ち尽くし、それでも歩こうとする人が好きだし、自身もそうでありたいと思う。

英語でコミュニケーションを取り、出身の違う人と話すときに、「自分たちの国ではこうだ」という話になるときがあって、とてももどかしく思う。日本語でも言い表すのは難しいけど、英語力の余地がありすぎたりする。あなたはイタリア出身だけど、”イタリア人だからこう”ではなく、”あなただからこう”でしょう。自分は日本出身だけど、”日本人だからこう”ではなく、”俺だからこう”である。確かにその”俺”には、日本で生まれ育った流れと慣れがあるけど、その中でもその特定の行為をすることになった背景は、日本人だからで片付けられるものではない。そうやって、背景を知って会話していくのはおもしろいけど、そういうもどかしさがあったりする。

人類学者のティム・インゴルドの世界へのまなざしが結構好きで、彼は「類似した注意の向け方を持つ人々の集まりこそ一般に”文化”だ」と言っていた。

日本で生まれたら日本人なのか。両親の国籍を継いだら、その国の人になれるのか。数日滞在する観光客は、よそ者で、地元から離れたことのない人は、その土地を深く理解していて、よそ者ではないのか。移住者って言葉はなんなんだ。人間全員そうだろとか思う。

数日の滞在でも、その土地の物の見方を観察して、そこで過ごしてみて、こちらに向かってやってきたものを飲み込んでみると、それはその土地の注意の向け方に馴染んだことであり、それはつまり、インゴルドの文脈における、文化を共有していることになるのではないだろうか。

島国のカナリア諸島へ来てから、ビーチへ行く回数が増えた。といっても、人混みは好きではないから、泳ぐ人に付いていって散歩したり、久しぶりにダイビングをしたり、ふらふらと海沿いの道を歩いてみた。

特にヌーディストビーチではなくとも、年齢問わず、トップレスの人が多くて驚いた。挙げ句の果てには、おじさんが下半身まるだしで堂々と歩いていたりして勘弁してくれって感じだが(流石に街中のビーチではないけど)、まあもう何もかも許されている感じがあるから、誰も問う人はいないと思いつつ、トップレスはセクハラじゃなくて、おじさんはセクハラになったりするのか基準はわからんなと思ったりした。

コロンビア出身の人は、「南米でもトップレスは異常だし、アメリカだったら捕まるよね」と言っていた。もちろん、日本でもない光景だ。

トップレスの人も、まるだしのおじさんも、それぞれに抱えている、恥ずかしさに対する認識は違うのだろう。ただ、思ったのは、この”文化”では、「恥ずかしい」という気持ちの向け方が、自分が今まで染まってきた文化とは、認識が違うのではないかということだ。そして、改めて「恥ずかしい」ことで、何を失うと自分は恐れているのか気になった。

たとえば、他者の行動を「恥ずかしいからやめなさい」と制するのは、「恥ずかしいことが何よりも耐え難い」ということなのだろうか。日本でのお笑いでは、ボケた相手に対して「恥ずかしい!」というツッコミが成立したりする。「それは恥ずかしいけど良いよね」ということが成立しないような気がする。

自分もそれは恥ずかしいやろと思ったりするが、そういう恥を情けなく、耐え難いものだと、人に目線を向けてしまうと、それは自身が少しでも逸脱する行為したときに、跳ね返ってきたりする。

スペインで暮らしてきて、随分と気楽に過ごせることに気が付いた。もちろん、大変なことも多いのだが、その気楽さと恥ずかしさの捉え方は、関連しているのかもしれない。インゴルドのまなざしを補助線に引きつつ、今いる文化での過ごし方と恥ずかしさへの認識は、引き続き観察していこうと思っている。

季節的なのか、たまたまなのか、カナリア諸島では、快晴とあまり出会えていない。わりと撮りたいイメージは、晴れている光が必要なので、それらが撮れずにもどかしい。出掛けたいけど、出掛けてもなぁと思ったりする。出掛けないともったいないと思うときがあって、それは誰に対しての弁明であるのかとも思う。天候は仕方がないことなので、曇りで出会ったものを撮っていこうとは思っている。