身体が語るもの

子どものときから、超健康体というわけではなかったが、大きな病気もなく、風邪を引いたり、頭痛が起きたりすることも、ほとんどなかった。

季節の変わり目に体調を崩す人がいると、わりと大人になってから知った。花粉症はひどいけど、もはや当然のようになっていて、季節が過ぎれば、また忘れていくような存在だ。きっと、身体を意識することなく過ごすことが、当然のようになっていたのだと思う。

だからこそ、軽度な不調であっても、その都度、戸惑い、苦しんでしまう。たとえ、些細な変化だとしても、身体に異変があるという状態への耐性がない。

いや、むしろ、不調を感じることが多い人であっても、”身体がままならない”という状態は、いつだって、戸惑うようなことなのかもしれない。そのことを改めて、実感するような体験をまさに今している。

今月は、ほとんどの時間を身体の調子が悪い状態で過ごした。回復の兆しが、現れては消えていく。また来月から環境も変わるから、そこで良くなることを祈っている。

暮らしている家での人間関係は、すこぶる良好で、やりたいことも、楽しみもたくさんある。それでも、”うめく”とはまさにというほど、身体は何かのサインを出し続ける。

身体がうめき、もともと不眠気味だったが、さらに眠ることが難しくなる。不調に関して調べてみると、あらゆるところに、「たくさん睡眠を取ること」と言及されている。

「睡眠が大事だ」というのは、本当にその通りなのだが、眠れないから不調なのだし、不調だから眠れないのだ。医者は全員、快眠の幸せもんなのだろうか。不調だからという盾を武器にして、あらゆることに刺々しくなりそうになる。

日々交わされる、「How are you?」という挨拶は、たとえ、実際に調子を聞かれているわけではなくとも、自身への問いかけとなる。自分は今何を感じているのだろうか。どのような状態であるのか。

そういった、素直な問いかけであったはずが、調子が悪いと、いつ聞かれても「Not good」としか答えようがない気持ちになる。ハウスメイトたちは、自分の体調をとても心配してくれている。

だけど、時折、毎日掛けられる心配の言葉が、「もう聞いてくれなくていいよ」と疎ましく感じるときがある。というか、最近はほとんどそうだ。調子を聞かれても、話を逸らすようにしている。でも、それでもいいと思っている。

邪険に扱うのではなく、心配してくれているのはありがたいことだ。「調子の良くない状態が悪」という環境の辛さは、以前の家で実感した。

だが、この”ありがたい”という言葉を使うときの、”そうしなくてはならない”感がどうも苦手だ。「ありがたい」と思えない自分を責め、そうして自身を傷付けたことは、いずれ他者への刃となることを知っているからだ。

昔を思い出すと、たくさんの人に助けられて、ケアされてきたんだなぁと、最近思えるようになってきた。ただ、人に助けを求めたり、手厚く気に掛けてもらうことに、まだ慣れていない。だって自分でなんとかするしかなかった経緯があるから。そこに実はたくさんのケアがあったことに気付いたりしたんだけど。

だからこそ、心配されても鬱陶しく思うことに、何かしらの是非は問わない。流石に「うるせぇよ」とは言わないし、あまり話したくないときにはそう伝えるし、たまたま調子が少し良いときには話す。そういう戸惑いに対して、緩やかに応答している感覚がある。

夜中に眠れず、ふと姿見に写る自身の姿を見ると、思わず叫びたくなる。つらい。どうして治らないのか。身体は何を求めているのだろうか。何が不満なのだろうか。

自身の身体を責めようとする頭をなだめ、身体との対話を試みる。身体が過剰に反応してしまうのは、どう考えても不合理で、調子が良いときの方がたくさんの選択肢を選べるのだから、理不尽だと思う。

ひとつ、気が付いたのは、数ヶ月前の人間関係の強いストレスが、今になって身体にやってきたのかもしれないということだ。今はそういったストレスがなく、むしろ、楽しくやっていける時期に、こういった不調にならないでくれとも思う。きっと、その当時から蓄積している小さなストレスが、今になって身体へやってきているのかもしれない。

だが、そうやって理由をつい求めてしまうけど、そういうものではないんだろう。理不尽だと思うからこそ、それに釣り合うような理由を求めたくなる。そうすると、身体との対話を打ち切り、自らの一部を責め立ることになってしまう。受け入れるって、難しいことだ。だけど、身体の声を聞いてみることの淡いは、探求しがいがあるように思う。

身体が不調を語り続けるということは、何かが変わっていく段階なんだろう。正直にいえば、そう思わないとやってられないところもある。救いを求める人の気持ちが、今は少しだけわかるような気がする。

誰かの語りを聞いたり、本を読んだりして出会う、「日本は平和だから」という言説に、なんとも言えぬ、閉塞感を感じる。自分は今日本にいないけど、なんだかムスッとしてしまう。その土地にいるだけで、勝手に平和だと決めつけんなよと。そして平和には苦しみはないとでも思っているのかと。

どのような苦しみが、強くて重くて、どのような痛みが、弱くて軽いのだろう。その基準は誰が決めるのか。上下があると思っているのか。人が飢えてはいけない、人が殺されてはいけない。それに比べたら、なのだろうか。殺されないけど苦しい。飢えてはいるけどなんか楽しい。そのような固有の人々の声を蔑ろにしているんじゃないのか。

誰しも苦しみがある。とはいえ、飢えたり、殺されたりする人がいないでほしい。自分はそういった両者を同時に大事にしたい。

不調になることは苦しいが、身体を責めずに、じっくりと対話することを少しずつ試しているところだ。正直いえば、さっさと治ってほしいと毎分思っている。だが、それでも、待つという矛盾を抱えて、苦しみ、うめき、川沿いを散歩していこうと思う。

色んな街を散歩して気付いたのは、川沿いのある街の風景がなんだか好きだということだ。今いる街の川は、結構大きくて深そうだけど、こうして、陸地まで水が侵食してくる箇所があったり、なんだか自由で、壮大で、川沿いをぶらぶらと歩きたくなる。