かかりきりになる

どのような本に出会うのかは、機が熟すという感覚に近く、今の自分がちょうど読みたかった本が、ある日バシッと手元にやってきたと感じることがある。

昔、読めなかった本やカテゴリーが、時を経て読めるようになる。妄信のように言葉を追っていた本が、否定ではなく、批評できるようになり、新たな問いが育ってくるように思われる。まさに味噌の発酵のように、本を読むことは、シンプルな材料でどこまでも美味しく、楽しくなる行為である。

最近は読書が捗っている。単純に読書量でいうならば、今までで最も本を読んだ月になるかもしれない。言葉をなかなか受け止めきれず、数年ぐらい積読していた本であっても、するすると読めてしまう。「どんな本でもどうぞ」という無敵感がある。

何か特別なことがあったわけではなくて、本に触れている時間が増えたというだけだ。たとえば、電車に乗ったり、待ったりしている時間は、基本的にスマホを見ずに読書をしているのだが、今は移動時間が多いので、必然的に読書の時間が増えた。

今月はマドリード郊外で暮らしていて、中心部まではメトロでおよそ1時間弱掛かる。よく街中へ行くから、そういった日は往復のおよそ2時間弱を読書に費やすこととなる。

郊外の路線は、大体座ることができて、車内も静かめなことも多く(バルセロナでは考えられない)、穏やかな気分で本を読める。マドリードという街を散策するのはおもしろく、徐々にこの街を気に入り出している。そういうわけで、移動を含めて楽しい。

移動時間による、読書量の増加は今までもあった。おそらく、ご飯を食べながら読書をするようになったことが、大きな変化となったんだろう。

キッチンに小さなテーブルがあって、そこに座ってご飯を食べている。最初はPCを持ち込もうかと思ったけど、テーブルが小さいので、動画やスマホを見るのはやめて、本を読むことにした。本を立てかける、ちょうど良い小物もあった。そうすると、なんだか妙に収まりが良かった。

別に自分の部屋で、動画を見ながらご飯を食べたっていい。ただ、料理を作り、たまに椅子に腰掛けて本を読み、出来上がったご飯をテーブルに並べ、それらをゆったり食べながら本を読むという行為が、するすると生活に馴染んでいった。

今までは飲むように食べるというか、料理は楽しいけど、ご飯を食べる時間は、わりとさっさと終わらせて、他のことがしたいと思っていた。だけど、ゆっくりとよく噛んで食べるようになった。だって、ゆっくりしていたら、本を読む時間が伸びていく。自然と、食事の時間が豊かなものへと変わった。

自分にとっての読書は、読書の周辺を縁取る体験そのものであるように思う。本の内容を知りたい、書かれている言葉を受け止めて感じることを見つめたいのもあるが、きっと本だけを読んでいる状態に入りたいということなんだろう。

だからこそ、移動時間が多かったり、本を読むスペースを作ったりすると、読書の時間が増えていく。気分や忙しさに関わらず、読書する環境による。

紙の本も好きだが、電子書籍でしか本を読まない。端末にダウンロードしておけば、電波も必要なく、目が疲れにくい画面だから、読みたいときにどこでもすぐに読める。きっと、紙の本だけだったら、ここまで読書が自分の一部にならなかったと思う。

本を読むことは、かかりきりになるということだ。

PCやスマホは見られない。歌のない音楽じゃないと聞いてられない。誰かと喋れない。だからこそ、深く沈み込んで、周囲が何もわからなくなるぐらい、言葉で視界が埋め尽くされるように、自身と対話していくことができる。

本を読みながら移動や食事をすることは、同時並行的な行為とも言えるが、自分にとっては、かかりきりになりやすい環境の一部ということなんだろう。歌がある曲を聴いたって、喋りながらだって、本を読める人もいるだろう。オーディオブックという形式を好む人だっている。

不便益だから良いというわけではない。自分でページをめくらなければ、たくさんの言葉と共に待つように沈黙している本というものへ、かかりきりになることで、敬意を持ちたいのだと思う。

敬意といっても、豊かに味わいたいからこそという部分もある。かかりきりになることは、年々貴重なものになっていくんだろう。SNSやニュースにほとんど触れていなくても、そう思う。

沈黙を待っていたい。かかりきりになることは、重さを感じることでもある。重みの形を捉えてみることは、きっと誰かに信頼を手渡していくことに繋がる気がしている。

エスカレーターで律儀に並ぶのは日本の特徴と言われたりするが、都市が大きくなると、秩序化されていくのは、国内外あらゆるところに共通する気がしている。バルセロナも、マドリードも、日本でいう関西風の右側立ちなのは、なんだかニヤリとしてしまう。