04.22(月)
・自分の写真を言語化すると、どのような色味や明るさと言えるのだろうか。信頼できる現像所にそのうち聞いてみようかな。他者からの視点を知りたい。
・渋滞の多さは沖縄を思い出すな。そこそこ大きい島にはつきものなのだろうか。
・プロテインミルクがうまい。
04.23(火)
・指定した時間より大幅に早く来た配達員。助かったけどね。スペインの郵便システムは終わっているけど、この配達業者は無事に届けてくれると信じてるぜ。
・色々飲み比べてきたけど、好きな種類のビールはラガー系のピルスナーで決まりだな。カナリア諸島のブランド「DORADA」が出している「Pilsen」はスペインのビールでもトップクラスに好きだ。
・ポテチは「Campesinas(農民味)」が美味い。直訳で”農民”って何やって感じだが、トマトやニンニク、パセリなどが入っているようで、コンソメ味に近い感じ。癖がなくて食べやすい。
・ゲド戦記の続き(2巻から)読むか。
・何を求めているかなんて、人はわかっていない。だから自分の作るものが、誰かの期待に添えるかではなく、自分の作ったものが、誰かの欲しかったものになるのだ。作ったものに応じて必要な人が現れるものなんだと思う。
04.24(水)
・むしろ真逆なのに、「顔色良くて元気そうだね」と言われてみるとと、なんだか元気に思えてくる。声を掛けられることの嬉しさってあるな。
・「いまファンタジーにできること(アーシュラ・K・ル=グウィン)」を読み、読書会をする。ファンタジーと、フィクションや物語の違いはあまり気にしていなかったが、確かにどのようなものになるだろうか。ファンタジーとして、見てみることの良さはきっとある。揺るぎない定義を決めたいわけではなく、タイトルのように、ファンタジーが自分たちにもたらすものは何なのか、観察してみたい。そのものとして受け止めること。
・スーパーの店員が笑顔だと、めちゃラッキーな気分になるな。珍しいもんだ。
04.25(木)
・コミュニティとの距離感を学んでいる。のめり込むほど楽しかったり、嫌気が差すほど急激に飽きてしまったり。些細な言葉や思いがけないことが、ふつふつとした楽しさを思い出させてくれるんだろう。
・ふつふつとした楽しさ。急激に上昇した刺激的な楽しさは、下降するのも急激だ。ふつふつと自身で確かめるような気持ちが、継続には向いているのではないか。
・捉え直したいのは、対話がしたいのは、大概のことに納得できないから。なんで多くの人は、ある程度のところで簡単に納得して去ってしまうのか。腑に落ちるという身体的な感覚を見過ごして、どこかで自分を騙して生きていきたくない。そう思ってしまうからこそ、自身の孤独の形は螺旋のようで、どこまでも旋回するように動き続けているんだろう。
・こうして学ぶことと、世界を歩き回ることの実践で回していけば、わりと良いバランスなんじゃないだろうか。
04.26(金)
・まなざしは磨けるものなのか。良い感じに撮りたいと、ぶらぶらしても思うようには撮れない。でも、確かに自分が変化してきたここ数年で、写真はグッと良くなってはいるんだけど。
「自己は道であり、道は自己なのである(「シェルパ」と道の人類学)」ならば、歩くことで、道は形作られる。歩いていくことで、”道がない”という状況がなくなるのならば、これを希望と呼ばずに何と呼ぶのか。道は不変ではなく、絶えず変化して、消失と出現を繰り返す。人は環境に左右されるが、少なくとも環境も自己、道の一部であり、新たな側面が見えてくることはきっとあるだろう。歩くことは希望なのだ。
・人間は社会的なものだと、潔く認めてしまおうか。共に歩くことが好きだ。歩くことは社会的な行為である。だからこそ、居心地の悪く、むかむかするようなぬかるみであっても、歩くことを通して、世界の輪郭を知っていくことをやめたくない。だからこそ、捉え直しの螺旋にいるんだと思う。
・語りは全てを網羅しようとしなくて良いのではないか。こうこうこういう人たちに配慮をとか、加味できてないとか言ったりするけど、そういうときは、その人たちの視点でそれについて語ってもらい、それを聞けばいい。それが人との関係ってことだろう。
・知識より、知恵のある人の方が好きだ。武装ではなく、ままならなさに浸りながらも、道を歩くこうとしている人。
04.27(土)
・『「シェルパ」と道の人類学(古川不可知)』における、歩行のリズムの話。トレッキングガイドは人々のリズムを調整して、即興的に一つの流れを作る。リズムを共有することで、自他の境界をほぐし、人と繋がっていく。共に道を歩くこともそうだろうか。散歩しながら喋るという遊びの楽しさ。なんだかんだ、楽しい遊びだ。一方で、リズムが乱れることは居心地の悪さになったりするが、それは共感ではない形で他者を知ることきっかけになるかもしれない。世界は豊かで、歩くことは希望であるからこそ、ぬかるみにハマってしまったときの振る舞いを考えていきたい。
・「生を営むためには、世界へ埋没すると同時に自己の境界を確かめ直す、双方向の運動が必要だ(「シェルパ」と道の人類学)」ほんとにそうだなぁって。埋没、没頭のような状態も大事だが、輪郭を知る、確かめることが、問い直す、捉え直すことであり、まさに今していることなんだと思う。
・ティム・インゴルドは「類似した注意の向け方を持つ人々の集まりこそ一般に”文化”だ」と言う。文化はそこで過ごした時間の経過を指すことではないのでは。移民のいるスペインの文化とは何を指すんだろう。スペイン人とは。住むのと旅行は違うと言われるが、それもその場の注意の向け方を拒否しなければ、その文化の一員じゃないか。「千と千尋の神隠し」の最初に異世界のご飯を口にさせられるシーンを思い出す。些細なことが文化に入るきっかけとなって、道としてその実践は個々で異なっていく。
04.28(日)
・大事な人が元気そうで、またその様子があからさまで、大変好ましい。
・フィルムやオールドレンズのどういう部分に良さを見出しているのかは、いずれ誰かと話したり、言葉にしたりしてみたい。
・誰かと一緒にいなければならないと思うとき、その前提をなくしてみると、ジャズのように”ズレ”をおもしろく感じられるかもしれない。
・居心地の悪さをどう捉えるか。それは大事だと思いつつ、居心地が良い、悪いを超えて、やってきたものに応答して、乗っかってみる。ジャズのように、来たものを解釈せずに、えいやと奏でてみることだ。