2024.01.29-02.04|雑記帳

01.29(月)

・どのようなまなざしであろうととも、積み重ねがあれば愛せる。逆に言えば、基本的に積み重ねがない状態では、よっぽどじゃないと「何やこれ」となる。だが、そことは別軸で、まなざしを置いてみることはできると信じている。そして、自分のまなざしを磨くというか、どういった状態で世界を見たいのか、常に捉え直し続けることなんだと思う。

・古典を読む会をやってもいいな。共存のための古典会。

・なぜ和むんだろう。愛なのか、人柄なのか。和むってどういう状態か。

・味噌を作るということをいつかやりたい。

・文脈を一緒に食べるということ。食に対する思い込み。人間は社会的な生き物で、味覚さえも、それに従って感じているのかもしれない。

・食の暴力性はありつつ、潔癖さは共存に近付くのか。淡いを知っていきたい。きっと自分は食に関わること以外で、人と関わろうとしてきた。それは踏まえつつ、食が添えてくれる豊かさをもっと知っていきたい。

・社会が変わるわけないと、どこかで思っていた。だけど、人間はときに儚くも、あっけなく漂い、忘れてしまうものだ。社会を変えるというより、その変わってしまった形を見つめてみると、どう見ても変わってきてしまった歴史がある。

・対象の暴力性に気付くように批評してみることで、物の見方は変わったりするが、暴力性を指摘して、フェアな状態に均したいという考えは、むしろ、フェアであればいいという、さらなる暴力性を生むだろう。

・味噌を醗酵させるように、気付けばやっていて育っていることがある。そしてその味噌をどこに置くのか。どこに置くと美味しくなるかというより、どこに置いてみたくなったのか。置いてしまったとも言えるかもしれない。

・作品の構造を考察する人に嫌悪感を抱くのはなぜだろう。わかった気になっている、あなたは何を感じたのかが怖くて出せないんだろうと思ってしまう。きっとニヒリズム的な、絶望に安堵しているような人が、心底つまらなくて嫌いなんだろうな。ただ、そういう見方をしてしまうこと自体が、その人が感じたことなんだろう。見ようと思えば、その焦燥感や怖さは考察の中から透けて見える。構造の説明者に成り切ろうとしても、その言葉たちは、しっかりとその人の感情に裏付けされた言葉が並んでいくから。

・共存の淡いの難しさはある。わからなさに直面する。だが、旋回する螺旋の一部であると捉えるならば、きっといつかの自分や誰かの積み重ねになる。今は最上階だと思いつつ、きっとまた新たなものが巡ってくるだろうという希望は持ち続けたい。

・批評的視点の気持ちよさには気をつけたいな。前提に気付けるから、他者の感じたこと自体を否定して、その先を求めようとしてしまう。感じたことは感じたことであることと、その上で前提を見てみることは、切り分けておく方が良さそうだ。

・共存はひとつのキーワードであり、歯止めでもある。わからなさに棚上げすること、絶望に浸ること、ニヒリズムに集約すること、批評を気持ちよさの暴力に使うこと。それらを回避して、未知で不確定な希望に飛び込むためにも、共存にあるユーモアを探ろうではないか。

01.30(火)

・重みを感じることは、人を信頼することかもしれない。見返りはなくとも、結果がどうであれ、その重さを感じること自体が、自分にとって価値のあることだと思えるんじゃないかな。

・責任感というのは、相手から求められたことへの返しというより、ずっしりと感じた重み自体に自分は価値を感じられる人間であると思うことかもしれないな。

・信頼の形は、きっと自分の中にあるはずだ。世間のいう信頼ではなく。

・「自分は何かができない」という気持ちは、一般的なその言葉に対して、自分の中にある言葉のイメージとの剥離があるということなんだろう。だからこそ、自分に合う形を発見していけばいいんじゃないかなと思った。自分の中にある形を見てみること。その形は固有のもので、言葉を再発見していくことは、揺らいでいる形を捉えてみることなんだろう。

・人に手渡してみると、意外と各自でなんとかする。それは信頼といえるんじゃないか。信頼は裏切られることじゃなくて、荷物を渡してみることなんだ。それは肩の荷が降りることでもあるのかもしれない。

・目の前の人を、その後ろに無数の人がいる集合体だと思っていたのは確かにある。でも何か否定されたとしても、その1人の個人が思っていて、それは気分やタイミングによってすぐに移り変わるもので、そのときそのタイミングでたった1人の人が言ってきただけだと思うと、何を言われて何を思われても、そこまで怖くないかもしれない。

・認めてくれないのは他者じゃなくて、自分だ。他者を攻撃してしまうのは、自己との対話や受け入れができていないからではないか。

01.31(水)

・どのような国籍だろうと、人間は地続きの存在であるように思える。ルーツが違うと言われるが、繋がってるんじゃないかな。

・あえてでもない限り、内側に渦巻く孤独と、外の広い世界を混ぜてしまっている人の文章は読みにくい。

・「神谷美恵子 島の診療記録から」を読み終わる。神谷さんの文章は、自己との対話を経て滲み出てきた思考が綴られているからか、するすると染み渡ってくる。

・多拠点サービスは、もはや貴族の遊びとなってしまったな。

・サンティアゴ・ベルナベウを観に行くと、あまりのデカさにビビった。カンプ・ノウもこんなにデカかったっけ。

・モノクロフィルムの現像を頼む。本格的なモノクロフィルムを頼むのは初めてだ。

・身体のあらゆる箇所が不調だ。内面は元気だと思っていても、身体との付き合い方はまだまだ難しい。

02.01(木)

・「転職ばっかりうまくなる(ひらいめぐみ)」を移動中に読んでしまう。キャリアとか、成果とか、そういうところから距離を取った働き方がいいよな。株式会社って仕組みは、やっぱりおかしいと思う。そうじゃない道を見つけていきたい。そうなると、興味なかったけど、人を雇ったり、協力していくことをすることになるかもしれない。

・「このメガネ」っていう悪口って、よく考えたら雑くておもろい。

・メトロでパフォーマンスする人がバッティングするレアな現場を目撃。どうなるかと思うと、何か話して、お互いを健闘するような握手をしていた。お菓子を売っている人もいる。それだけで生きるのは大変だと思うが、ルールの外を見ようとすれば、広がっているものは確かにあるんだ。

・占いは効果があるというより、言ってもらった言葉をフックに、自己との対話が始まるからこそ、自身が変化していくから、当たってると感じるんだろうな。

・車窓から景色を眺めていても、何かに遮られることがある。だけど、それでも見続けると、必ずひらけた景色が見えてくる。希望も同じではないか。絶えず流れるものを見極めていくことは、生きることを知っていく、終わらない冒険なのではないか。

・目的地が終点だとのんびりしてたら終点じゃなくて、危うく降りないところだった。乗り過ごしたはあるけど、降り過ごしたという日本語はあるのだろうか。

・ようやくマーベルドラマの「エコー」を観始める。マヤの淡々とした姿勢がいい。

02.02(金)

・コミュニケーションを取っておくことの大事さ。何をしているのかわからない状態だと、受け入れられるものもない。

・身体は不調だし、眠いけど、この土地にいることを楽しみたい。

・ラテが本格的すぎて、ラテじゃんってなった。

・飲み物を出してもらうことの意義。人を繋ぐのが、飲み物だ。

・話すことがないというとき、話すんじゃなくて、話を聞くんだということはあるんだろうな。

・切れ味のいい包丁を使ってみると、こんなにも食材が切れやすいんだと感動した。料理が好きになってきたから、道具にこだわると、さらに好きになるかもしれない。

・親切に言ってくれていたことが、こんなにも怖い顔してるんだってなるときあるね。

・「転職ばっかりうまくなる」ならぬ、”引越しばっかりうまくなる”。いや、うまくなるどころか、出会いたくなかった自分に出会い、傷付き、居場所のなさを感じる。これは絶望ではないけど、今のところ着地がわからないって感じだ。

02.03(土)

・何かを分け合うことの効用を学んでいる。

・AFCアジアカップ2023の日本対イラン戦を観る。負けたけど、盛り上がれて楽しいもんだ。

・助けてくれる人がいるという安心感。自分が変わっていくことを許していく。自身でエンパワーメントしていく。

02.04(日)

・Renfe(高速鉄道)には定期券があるらしい。

・同意のコメントを言われても、全然違うんだよなぁと思うことがある。

・日曜日にフリーマーケットが行われている光景は、スペインの定番なのだろうか。

・家族、家族、家族。週末にイオン行くみたいな感覚なのだろうか。

・サラマンカの旧市街を歩いてみる。石畳とカテドラルの風景は美しいが、段々と感覚が麻痺してくる。

・「エコー」の最終話を観終わる。力ではなく、癒しで返していく。キングピンといい、サノスといい、カーンといい、マーベルのヴィランは魅力的だよな。家族によって傷付いた記憶が、また誰かを傷付けていく。自分はそういった連鎖をとめたいからこそ、そこに隠された前提を捉え直してみたいのだろうな。