2023.07.31-08.06|雑記帳

07.31(月)

・エアコンとソファだけで幸せすぎる。

・探求できないという寂しさを、「普通」と口にする人たちは無意識に抱えていたりするんだろうか。

・エアコンほんとすき。

08.01(火)

・ミンミンゼミとヒグラシの声が聞ける嬉しさ。

・謎の赤い花は美しさよりも恐怖だ。

・猫も待つこと。

・“文化”人類学というより、人類学に興味がありそう。人として。文化という枠の捉え方を知らないのかもしれないが。

・数字をキリ良くしたいって、何のこだわりなんだろう。

・捉えるって表現が腑に落ちる。ほんと捉えてる。何度でも。

08.02(水)

・物事の本質があると信じている節がある。だけども、人が何かを読み取るとき、そこには生の螺旋が乗っかる。だからこそ、解釈に幅が生まれる。それは愛せるポイントなんじゃないか。本質は違うといくら思っていても、AIじゃないのだし、不規則なことが、人間らしさではないのか。

・素直さに対する抑制も、きっとこのもどかしさなんだろうな。フラットな視点を求めるからこそ、そこから外れることの崩壊する未来を見てしまう。だけども、そこを正すことはできない。

・ただ、自身の螺旋の形を美しくないとは思えない。探求はしていくけども、探究にそぐわないものも共存していく。これは人生をかけるテーマであると思う。共存を目指すからこそ、もどかしくとも、対話や作品を通じて、展開していくんだと思う。

・もどかしさが怒りになっている。素直さを捉えないと大変なことになるぜ的な。他者に土台が育ってない。負のループが始まると思っている。そこに是非ではなく新たな視点は必要になっているのかもな。

・自分だけがという螺旋は孤独でもあるが、だからこそ自分にとってのかけがえのない、究めていくような学問だと言える。

・野良猫触りコンビニまで左手封印。

・指摘することで自分に返ってくる。

・言葉が出てくると嬉しいもんだな。

08.03(木)

・見て見ぬふりをしていた夕立の存在に気付く。

・腰が低すぎる郵便局員と気にも止めない雷。

・違国日記、終わっちゃうのかよ〜。これからどうやって生きていけばいいのだと思わせてくれる作品と出会えて良かったと思ったり。まだまだ読みたいなぁ。

・わからなさは遊びだ。だからこそ、「ほうほう、どうなってしまうんだ?」と自身のことでも、探求をもとに、捉え直していける。

・よく思うフェミニズムの違和感は、ジェンダー全体を背負ったつもりで、自分の武器のために利用しているように思うから。多分、そこに至るまでの苦しみはフェミニズムではない捉え方をした方がいいんじゃないかと思うからなのかな。ここらへんはまだ考えたい。

・イヤホンせずに、音を流せるってやっぱいいな。

08.04(金)

・書いていて、「どうなるかわからない」という書き方ができるのがすごく楽しい。そこには旋回したからこその積み重なりがあるから、言葉が生まれるんだろうな。

・ベネズエラに「ベネズエラの関西」みたいな街があるらしい。出身だというと、あなたはユーモアがあるのねと言われるのだと。

・リズムでタイトルつけるの好きかもしれない。

・iPhoneを日本語にすると、情報量多く感じるものだな。

・短歌っぽいものを詠んでみると(意外と俳句は短くて生まれない)、文字数に合わせるのが、むしろ楽しさになるのかもと思い始めた。

・個人の体験やささやかな実感、つまりは情景をたた描写して、季語を加えるやり方を「写生」と呼ぶのか。

・苦しみがあったからこそ、情景のみを淡々と記す。俳句や短歌の短さはだからこそ輝くのだな。

08.05(土)

・人生はバナナ論。物事は見方によって、何とでも言えてしまう。人生はバナナだと言えなくもない。だけども、バナナじゃない部分に美を見出すのが自身であって、どうしようもなく形作られた螺旋をただ見てみることをしたいのだ。

・探求の苦悩と、悩み事は違うのだけど、他者から見ると同じように映るのかもな。

・知らないことが劣ってるとかじゃなく、自分の旋回は美しいもので、しかも既にあって、だけども、その形だからこそ知り得ないこともある。知らないというか必要なかったというか。だから知らないことがあるものだ。

・エアコンの音と虫の声で夏のいいとこ取り。

・昔は体が動く。汗もかくし、鳥肌も立つ。だから身の回りのことに気付きやすいのかもな。

・すりガラス映り込む影アマガエル。

・玄関に二匹のアマガエルが住んでいる。

・chatGPTは手加減しなくていいからいいな。疑問を素直にぶつけて、詩的な曖昧な表現でもそれらを内包して学習してくれる。

・鈴虫の声まで聞こえて贅沢だ。

08.06(日)

・草刈り6時の世界に来ちまったようだ。

・ホラーなどを好まないのは、そうして感情の機微を感じなくとも、日常に潜むささやかな怖さ、生の実感は感じられるもので、必要性がないからだろうな。

・風呂の窓から鈴虫の声が聞こえてくる幸せ。

・虫の声って重厚だ。いくつもの命が声を上げている。きっとこの癒される気持ちは、生を実感できているからだろう。

・声を出さない虫はいないことになっている。美しい声を出す虫に対してのみ、自分は美を見出しているわけで。いいもの作っても伝わらなければというのは暴論だが、確かに伝える、というか、それこそ、ど田舎の山の中で鳴くぐらい。世界の手触りを確かめるように。それぐらいの置いておくような伝えるならば、腑に落ちてやっていけるだろうか。

・センス・オブ・ワンダーという言葉を久しぶりに聞いて、ふつふつとワクワクするような気持ちって、小っ恥ずかしいと思って避けていたけど、意外とありかもしれない。ワクワクと言う表現は避けたいけど、心の中で爛々と輝くような気持ちは取っておいてもいいのかもしれない。

・静かに眠れて、虫の演奏のなか自由に二度風呂に入ったりして思うのは、いくら満足度を上げていっても、やっぱり「どう生きるか」という問題を突きつけられる。その問いは決して俺を逃してくれない。

・ある程度は求めていきながらも、でも辛い時にそれが解消したら良くなるでもなく、いつだってその時に既に持っているものはあるわけだ。だからこそのわからなさの探究なんだろうな。