2023.03.20-03.26|雑記帳

03.20(月)

・沈黙が新たな分岐点を生むのかもしれない。待つこと。

・ただそうであるだけ。上下ではない。揺らぐけど、その姿勢は崩さない。崩れてもまた形作られる。

・楽な部分と試す部分。心地よさは一瞬で、揺れ動くものだ。

・英語だと些細なことが伝わるのは嬉しいのに、日本語ではなぜわかってくれないと思ってしまうのだろうか。聞くことは喜びなのかもしれない。もっと聞くことを理解することを素晴らしいと思ってもいいのかもな。

・はたらくって面白いことなのかもな。役割を穏やかに果たすこと。それを腐らず諦めずやっていきたいと思った。悪口を言う必要はない。へりくだる必要もない。淡々と穏やかにユーモアを抱えてやるのだ。

・「本当に他人を見たいと思うなら、自分自身を深く、真っ直ぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。(ドライブ・マイ・カー)」だからこそ孤独を素直に見ることだ。

・「ドライブ・マイ・カー」めっちゃ良かった。現実の曖昧さと沈黙の尊さ。いい映画だった。多分意図したところじゃないけど、ただそうだったことをただ見つめることへの真摯な姿勢が表現されていた気がした。単に傷を乗り越えた希望の話ではなく、孤独を覗き込む力強さを示していたような。説明的なセリフや余計な音楽もなく、淡々としているのが良かった。久しぶりにしみじみとした映画を観た。

03.21(火)

・考えを手放すこと、輪郭を削られることの効用は知りつつ、それをしすぎると、流石に体力がもたない。そこは仕方ない塩梅のラインなんだと思う。

・「理想とか、その内容である真善美は、私には理性の世界のものではなく、ただ実在感としてこの世界と交渉を持つもののように思われる。(岡潔 数学を志す人に)」直感はアバウトなものではなく、その人の中に確かに根付いているものだ。

・過去から学ぶことはあれど、そのときできないことが今は容易にできる環境だったりすることもあるんだろう。

・経験というものは恐ろしくもある。直感を手助けする一方で、自他を一定の物差しで判断しすぎるようになる。

・ほんとはあらゆる人とこういう奥まで入った淡々としたものを語りたい。だけど難しい人もいる。それは俺の姿勢を通して、もしかしたら素直さの紐を解いて、同じテーブルに座ることはできるかもしれない。影響を与えるなんて、おこがましいことを何一つ願いはしないが、その希望を抱く姿勢のために、俺自身はどこまでも真摯でありたい。

・素直さや孤独を見たいのは自身を通して、他者の姿を見たいのかもしれない。

・自然に身を任せる。夜考え込む夜型のとき、さっぱりした朝型のとき、日によって変わるだけで、どちらかに決め切る必要もない。

・年齢でものを見ることへの違和感は、人間性というものはバケツに水がたまっていくように、年齢に比例して深さが増していくものではないと思うからなんだろうな。いつ何時でも、人は変化していくもので、その変化を時間の流れと混同したくない。

・「こんどの大戦で前線へ行った人々は別として、そうでないひとは、たいていかぼちゃをつくった体験をお待ちだろうと思う。(岡潔 数学を志す人に)」いや、ねぇよっていう、おかしさ。当時の通例を現在で知るおもしろさは、なぜかたまらない。

03.22(水)

・人がいる都市に行くと、いろんなはたらくと生活があるんだなと気付く。

・その場所を語るには、とにかく歩くことなのかもな。ひたすら歩いて、問いが生まれて考える。ときには誰かと対話する。その繰り返しで、立体的な体験が立ち現れてくるんじゃないだろうか。

・歩くことで、過程を踏み締める。なにかと結果ばかり見られる社会の時間の流れだから、それを身体的なものとして取り戻す行為なんだろうな。

・家を持ったからと言って、安全で確らしさを繋ぎ止められるものではないという考えもある。どうしたら家がなくとも、その安全性みたいなものを擬似的に確保できるか。それともそれがない状態を通常だと自然に思うようにするのか。それはまだわからない。自然にたどり着くんだろう。

・愛情は乾いている感じるほど、情愛があるものでもあるのかもな。さらりとしながらも愛情を育むことはできるんじゃないだろうか。むしろそういうことをしてみたいと思ってる。

・私たちが言葉を残すのではない、言葉が私たちを残すのだ。

・許されるならカウンターで物を書きつつ、休憩がてら喋るようなことをしたい。

・落ち着かない。やはり不安になってしまう。安心できるところがほしくなる。でも久しぶりだからなのか。慣れるのか。よくやってはいると思うけど。

・我慢することが嫌なのは、それをなかったかのように振る舞うことに抵抗があるから。あった上でどうするのかという態度がいい。

・仕事におけるプロフェッショナルとは、決して分断するためでも、上に立ったふりで安心するためでも、誰かの心を踏み躙るためのものでもない。ただ、相手の審美眼に訴えかけるものだと思う。というかそうでありたい。仕事やはたらくをそういった意味のプロフェッショナルとしてならば、やっていきたいと思える。

03.23(木)

・苦悩は取り除かれるものではない。それが意味で満たされるとき、癒されるような感覚がある。

・芥川龍之介は”美”を追求していた。改めて読もう。

・光と闇というのは表裏一体ではなく、混ざり合うものなんじゃないか。

・映画における、タバコの役割はいい哀愁だよな。そこに人間模様や語り得ないものが滲み出ている。

・物事に過剰なストーリー性を持たせることは腑に落ちない。ただそうであること。淡々としたものの中に意味が立ち現れてくるもので、それを簡単に飾り付けたくない。

・書くことが根になって良かったのは、あらゆる関わりがアイデアになること。きっかけになって、そこからいくらでも書ける。こんなに楽しいことはないぞ。

・絶望があったとしても、それを観察して書くことはできる。それは救いである。

・いくら精神的に穏やかでも、眠れないのは、翌日の体調に響く。どんなに楽しみな人や物事であろうとも、眠いだけで最初は億劫に感じてしまう。途中から乗ってくると楽しめるけど。だからこそ、今はそこを脅かされない人やものと接した方がいいかもしれない。

03.24(金)

・気分や体調が優れなくても、過剰な心配されるでもなく、それを受け止めた上で、淡々とさらりと喋ってくれるだけで、どんなに気が楽なことか。

・打算がないことが善という価値観は自分に強いがなぜだろうか。そこをゆるめてみるか。打算の美しさや情緒はどこなのか知りたい。

・「『対話の対等性』を普遍的原理としている限り、『他者性』を内に取り込み同化して所有しようする『我』執を払拭できず、全体主義的な暴力に加担することにすらなる。(エマニュエル・レヴィナス)」対等が絶対的善だと思いすぎていることへの閉塞感を表しているような。そこを外してみることで、対等の先にある対話というものが近付くような気がする。

・対等性を求めるのが違うのかも。他者は自分と同様にとてつもない苦しみをもっていて、前提があまりにも違いすぎる。ただ、同じ場を共有することをどうにか考えられないものか。

・「この辺事故多いんだよ」ってたまに聞くけど、あのときほど人の話を流してることないよな。あれはどういうやりとりなんだろう。

03.25(土)

・審美眼は直感として信頼していいのだと思う。人を見る眼というものは形作られている。だからといって、それに適わない人間を排除して終わるのはなんか違う。そうだとしても尊重して話すことはできる。距離を測ることだってできる。わざわざそれを値踏みするようにするよりも、美しさを抱いている人たちをただ愛していけばいいじゃないか。

・拒否感を持ってしまうものの”真美”を探ることはしてみてもいいような。

・意味は作り出せない。到達するもの。

・振り返ったらそうだった。立ち現れてきた。到達していた。そのような感覚が大切なんだろうな。

・楽しく活動してたら、いつの間にか社会が変わっているようなとはまさに。好きなことしてこうぜという刹那的なものではない。

・臨床とは生活、実感、土着でもあるのか。理論だけではない部分。

・電車に乗っていると、えげつない集中で本を読める。だから電車移動が好きだ。

03.26(日)

・無意識に「理性」というものを大事にしている。それはとりあえず楽しけりゃいいじゃんで終わるのは腑に落ちなくて、もっと根源的なものから見直したいと思っているところ。つまりそれは理性なんだと思う。

・”男性性”みたいな要素は、”動物性”ともいえるのかもな。

・批判するときは、自身の動物性という、闘争性や残虐性によるものではないか、じっくり観察するようにしたい。

・人はほんとに立体的なんだよ。長く深く関係性を築くならば、当然許容しにくい部分もあるわけで。距離を取ったり、モヤモヤしたりするのは問題ない。むしろ、「この人はない」と簡単に切り捨てることはしなくていい。

・俗物的なものやトレンドをわざわざ否定しなくてもいいような。流されないのは大事だけど、全て否定しているような態度はただ変わりたくないだけになってしまう。フラットな目線で。取り入れるものは取り入れたらいい。

・ラグビーおもしろい。アメフトも観てみたい。

・精神は心ではなく、あらゆる束縛を受けない。どんな精神であるのかは選択できる。

・沈黙が語ること。見えないものが語ること。

・書くことは、語り得ないものとの対話である。