ポッドキャスト「共存人類学研究会」を始めた

共存人類学研究会」という集まりを、4人の友人たちと2023年から定期的に開いている。

オンラインにて、よなよな読書会をしたり、哲学対話のように「そもそも」を問うような対話をしたりしてきた。名前こそ”研究会”ではあるが、いわゆる”お勉強”のような、知識を語るための行為をしたいわけではない。たとえ、ままならないような話や小さな問いであっても、共に考えていく場として作ってみたかった。

いつからか、人文書をよく読むようになった。哲学や思想、社会学、批評など、たくさんのおもしろい本や著者に出会った。本を読んでいくことで、あらゆる道に出ていく。思わぬところで道がつながり、交差していく。そのひとつが、「文化人類学」であった。

文化人類学の本には、エッセイのような軽やかな語り口でまとめられた本もある。ただ、多くは本自体も相当分厚くて、論文のような(というか論文が本になったものなど)難解なところもあり、さらに過去の文化人類学者の思想を汲み取って進んでいく部分もあったりするものだから、するすると読めるジャンルではなかったりする。

もちろん、そういう部分も含めておもしろがり、自分だけで読み進めるのも良いと思った。ただ、今まで読書会を開いたり、参加したりして思ったのは、読書会を設けることで、参加者と共同で本を読み進めている感覚を抱くことだった。それは読書の新たなおもしろさの発見でもあり、生まれた対話によって、さらに問いが深まるという経験であった。

また、開催日までに読み切ろうとする心理も働くので(その方が読書会も楽しい)、本を読み進めるモチベーションも上がるのだ。こうしたきっかけで、友人を誘ってみて、このような集まりができていった。

最初は配信やアーカイブなどを残さず、楽しく続けていたのだが、あまりにも楽しく、みんなの言葉が貴重であるように思えて、この様子をアーカイブとして残しておきたくなった。そして、開始してから1年ほど経ったタイミングで、ポッドキャスト化して配信していくことに決めた。

ポッドキャストの第1回目は、宮本常一の「忘れられた日本人」を題材に話している。厳密に文化人類学の本だけを取り上げるのではなく、そのとき自分たちが気になった本を題材にしている。

“共存人類学”とは

「共存人類学」という言葉は、造語である。

たとえ、ままならない話や小さな問いであっても、ゆっくりとお茶を飲むように、待つように、人と人が共に生きていく、共に”ある”ことを問い続ける試みを、文化人類学と掛け合わせて、「共存人類学」と名付けてみた。ニュアンスで付けたけど、結構気に入っている。

名前というのは不思議なもので、名付けることで、そこから新しい道が立ち現れてくる。意味への早急な要求に捉われず、自分たちの手で熟成させ、立ち現れた道を歩いていけるようになる。振り返ると、「共存人類学」という名前を付けてみたことで、新たな活動として、読書会として、アーカイブとして、様々な側面が生まれていったように思う。

以前、自分にはアートは遠い存在だと思っていたとき、岡本太郎の作品展をたまたま観に行き、絵の前で立ち尽くしてしまった経験がある。実際には、その時間は一瞬であったのかもしれない。だが、確かに”立ち尽くす”という感触を覚えたのだ。

岡本太郎は「対極主義」という主張を作品へ反映させた。対立する二つの要素を共存させようとする試みだ。シンプルな二元論のような考えには、あまりおもしろみを感じない。だが、彼の作品を観て感じた、その生命の勢いは、今思えば自分の中に「共存とはどのような状態であるのか」という問いを生み出したのだと思う。

そして月日が流れていくと、段々と「共存」という言葉をよく使うようになり、自身にとって大切な言葉となった。共存とは、決して綺麗事を言いたいわけでも、多様性のためでもない。矛盾や対立に引き裂かれながらも、どのような態度で生きていくのかを問うこと自体である。

人と共に”ある”ことは、不変的なものではなく、流動的で答えがない。だからといって、考える意味がないという思考で終わってしまうのは、あまりにもお粗末でつまらない。だからこそ、自分は”共存”を問い続けるべく、「共存人類学」という言葉を作ってみたのだろう。

聞く、応答する

自分たちは、誰かが話を始めたとき、その人が話終わるまで聞いて待つ、という態度を取ることが多い。ルールとして厳密に決めているわけではないのだが、話を遮ったり、合いの手を入れたりすることは少ないと思う。

あえて、こうして言葉で表してみると、日常生活ではあまり見かけない状態であるように思う。私たちが普段している会話とは、リズムが速く、ラリーのような往来があり、話す人と聞く人の境界線は曖昧である。そして、お互いのリズムを合わせていくことで、親密度は上がっていき、「なんだかこの人とは合うな」と思ったりする。

だが、時折思うのは、「果たして人の話を聞いているのだろうか」ということだ。それは聞くことが無条件に良いわけでも、普段の会話が悪いと言いたいわけでもない。

ただ、人は思った以上に多くの言葉を持ち、物語る力がある。自分の言葉を持たない人などいない。もし自分の言葉が見つからないと思い込んでいる人がいるのならば、そういう機会を潰そうとする環境に居てしまっているだけなのだ。

聞くことだってそうだ。興味のないことを一方的に聞かされるのは苦痛だ。だが、聞くことへの相互的な信頼がある環境であれば、聞くことのおもしろみは見えてくるのではないか。聞くことによって、自身の形は少しずつ変わっていき、また新たな言葉が生まれてくる。そういった循環は確かに存在している。

普段の会話とは違う環境として、思う存分に話し切ってみる。その上でじっくりと話を聞き、それらに応答してみる。決めうちで予定通りの言葉を話すのではなく、聞いてみて生まれた言葉をそのまま喋ってみる。時にはリズムが合わないと感じることもあるかもしれない。だが、リズムが合わないことが脅威ではなかったとしたら、その先で何が立ち現れてくるのか観察することはできるのだと思う。

ポッドキャスト「共存人類学研究会」は、共存を軸に問い続けながら、小さな問いであっても、話を聞き、それらに応答してみることをおもしろがる場所として、続けていきたいと思っている。頻繁ではないが、おそらく月に2~3回は更新できるはずなので、更新日である金曜日、ぜひ聴いてもらえたらとっても嬉しい。

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