人々の秘められた「まなざし」による写真

バス停で待つ人々を眺める。

日常でどこに目が向くのかは、そのときの関心ごとによるのだろうか。たとえば、歩く人を眺める。建物を見上げる。樹木の影を探す。天候を窺う。目の前の相手の目を見つめる。癖や偏りがある上で、そのとき、どこをどのように見つめているかによって、感じ取るものは変わってきそうだ。

風の音を聞いたり、湿度を肌で感じたり、匂いを嗅いだり、料理の味の違いを比べたりすることより、五感でいうと、自分は視覚が優位であると感じる。おかげで、オーディオブックは何度試しても、すぐに離脱してしまう。読書では目で文字を追う、その世界だけに没入しておきたいんだろう。

そのときは、人種について考える出来事があったから、人々の外見を見つめていた。緑髪と少し混ざった白髪を束ねている人。柱にもたれかかる、ピアスとドレッドヘアーの人。メタリカのTシャツを着た、スキンヘッドで屈強そうな体の人。これらの人々を同じ人種として括ることで、社会は何をもたらしたいのだろうか。そして、こうして並べてみると、自分はどうやら髪型に無意識に着目するようだ。

名前も性格も人種も、何を考えているのかもわからない人々が、同時に抱えているものは、バスを待つことだ。もし自分がそういった光景を写すとしたら、どのような写真となるだろう。

おそらく、バス停の全体が収まる距離で、固有の”人”ではなく、”人々”として撮ることになるだろう。正面からというより、背後や横からじっくりと見て撮る。決して、いわゆるポートレートのような距離で、固有の”人”の表情を隠し撮りのように写すことはしない。とはいえ、対象物の”モノ”として扱わず、あくまで”人々”としては撮る。ふとしたきっかけで、その中の誰かと話す機会があれば、その人を固有の”人”として撮るかもしれない。

そもそも、人種について考えるきっかけは、全く別の出来事にあった。そこに、バス停で待つ人々が現れて、自分は人々にまなざしを向けた。そのときは、バスに乗る機会が多かったのもあるだろう。主な移動手段が車であったら、横断歩道を渡る人々だったかもしれない。あるいは、また別の関心ごとがあれば、同じバス停でも、人々の背後に立つ木にまなざしを向けたかもしれない。

人々のまなざしは、偶然性が引き出す環境によるのだろうか。いや、そういった現象だけで成立するものではなく、その道に立ち尽くしていたという、固有の”人々”の存在があってこそ、まなざしが生まれてくるのではないか。そこには、相互に混ざり合うというプロセスがあるからだ。人類学者のティム・インゴルドが度々言及する言葉を借りるならば、「応答すること」によって、まなざしが立ち現れてくる。

自身のまなざしは、目の前の光景と共に溶け合っていき、再び自身の中へ戻っていく。このプロセスは螺旋状に動き続けるものであり、その螺旋の形が、その人の孤独であると思っている。つまり、人が秘めている孤独は、どこをどのように見つめるかという、まなざしによって絶えず変化していくものだ。

写真とは人々のまなざしではないか、と思う。螺旋のようにぐるりとした道を歩く人々の孤独が、現象と出会い、応答した結果、写真として生まれてくる。それはすなわち、生きること自体のプロセスでもあり、「どう生きるか」と問い続ける”道中”とも言えるものだ。もはや、写真をただの枠として見せることはできない。ときに恥ずかしさもあるような、常に途上の道がそこにはあるのだ。

たとえ、写真とならなくとも、自分の場合はこうして書くことであったり、誰かと対話を始めてみることでもあったり、本を通して文字の世界に没入することでもあったりが、自身のまなざしとして浮上してくるだろう。

写真は非言語の表現方法であり、言語と対を成すものだという話に、昔から納得できなかった。言語と非言語と切り分けられるものではなく、それぞれが単体で存在しているわけではない。繋がっているプロセスの中で、立ち現れてくるものが絶えず変化してくる。それらが結果的に写真であったり、文章であったりする。

生きることは途上であり、混ざり合っているものだからこそ、写真は人々のまなざしであり、なおかつまなざしの全てではなく、要素の一つであり続けるのだ。

どのような写真が好きか。想像の余地があること。撮った人が確かに生きてきた螺旋の形が惹きつけられるものであること。つまり、その人のまなざしに美しさを覚えるかということだ。そして、まなざしを窓とするならば、窓の近くに一緒に立ち、共に沈黙を味わいながらその先を見つめる、そういった穏やかさが感じられる写真が好きだ。

いい写真とは何か。限りなく、好きな写真と分け難いものだ。やはり、どのようなまなざしであるのかが問われる。だが、自分にとって美しいとは言い難いまなざし、共に沈黙してくれるわけでもないような写真で、嫌いだけどいい写真ということだってある。

自身の理解の範疇を超えた写真があることを許容することは、自身の美意識に疑いを懸けるような行為でもあり、ときに苦しいものだ。ただ、人々のまなざしは、どうしようもなく動き続け、想定通りにはいかない。好き嫌いだけではない捉え方をすることは、そういったままならなさの道を歩く上で、肩の力を抜いてくれる。

ままならなさを恐れ、払拭しようとすると、影はどこまでも付き纏い、攻撃してくるように思える。だが、ままならなさを歓待しようとしてみると、恐れとも共に生きられるのはないだろうか。そういう態度のまなざしで、撮り、書き、読み、対話していきたい。

だからこそ、美しさへの感覚は、深く鋭い状態であり続けたいと思う。自分にとって、美しさととは、言語として感情を伝えるような事柄ではないのだろう。あるいは、美の基準という篩にかけることで、こぼれ落ちていったものを切り捨てることでもない。

美意識が儚くも崩れ落ちる瞬間があると思っていてなお、井戸を掘り、刃を研ぐように、手入れをしていくことが、まさしく生きることであり、まなざしのプロセスの中にある楽しさを発見することではないだろうか。

深く鋭い美しさを求めるのは、人間の本質への探究心でもあり、「どう生きるか」を問い続ける自身のまなざしでもあるとも思っている。問い続ける限り、写真は自身のまなざしの一つであり続けるだろう。