背中を少し丸めるとき – 1枚の写真

人が券売機やATMを使っている様子を見るのが、なぜか好きだ。わざわざ、ジロジロと見ることはないのだけど、自然と目に入ってくる。

背中を少し丸めて、目の前の機械を操作している。そこに人間と機械への皮肉や啓蒙を覚えるわけでもなく、なぜか少し安心するような気持ちになる。

人は背中を丸める体勢になるとき、何かに注目している。ご飯を食べるとき、タバコに火を付けるとき、美術館で作品を鑑賞するとき、背中は少しだけ丸まる。沈黙の語りがそこにはある。そういう写真をいくつか撮ったことがあり、どれも気に入ったものになった。

Luigi Ghirri(ルイジ・ギッリ)という、イタリアのフォトグラファーがいて、彼の作品は美術館で作品を鑑賞する人を、その作品も写り込むように背中越しに撮る写真が多い。現代の人が見ると、「iPhoneで撮れんじゃん」って感じのあまりバシッとした作品ではないかもしれないが、人を撮るとき特有の騒がしさがなくて、自分は好きだった。

背中には人の人生が表れるなんて思わないが、顔の表情が人柄を表すとも思わない。おそらく、Ghirriは人単体というよりも、全体を見て撮る人だったのだと思う。それでも自分は、「人の背中」という視点を、Ghirriから受け取った気がしている。

だからだろうか。ベルリンにてメトロに乗ろうとプラットフォームへ向かうと、黒いコートを着た人が、券売機を操作している背中が目に入り、いそいそとシャッターを押したのだった。

ベルリンは公共交通機関に改札がない。その代わりに定期的に監視員が巡回してきて、正しい切符を所持しているか確認される。罰金は高いから、タダ乗りはやめておいた方がいいだろう。そういう仕組みは初めてなので、監視員に確認されたりする光景が、とてもおもしろかった。

この人はおそらく、”ちゃんと”切符を買っている。指定された”正しい”手段で電車に乗ろうとしている。切符を買う。お金を下ろす。そういった至極当然の営みを知らない誰かがしていることが、「社会」を形成しているのだと思った。

同時に、電車に乗れないこと、お金がないことが「社会」を形成しないわけでもないことに気付き、そこにある「存在」と「不在による存在」を見つめる。

まあベルリンには改札がないので、ホームレスの人などが乗客からお金をもらうために乗ってくることもある。現場は見ていないけれど、監視員もその人からは料金を徴収しないのではないかと思う。

そういう淡いがベルリンには存在していた。プリーモ・レーヴィが「溺れるものと救われるもの」で語っていた、「灰色の領域」を思い出した。

街中はグラフィティ(落書き)で溢れているいるのだが、この券売機の周囲にもグラフィティがなされている。それが妙に落ち着くのだ。まさかグラフィティを見て、落ち着くとは思わなかった。

こういうグラフィティが街の至るところに残されている。グラフィティはルールで縛ることのできない人の営みが存在し得るという抵抗のようだった。だからこそ、居心地の良さのようなものを感じるのだろうか。

券売機と向き合う(切符を買える)人は「秩序」であり、そこに違法で描かれたグラフィティという「逸脱」があると言える。でも、その中には、黒いコートの人の沈黙の語りがあり、どのような人で事情があるのか推し量ることはできないという、領域があることを忘れたくないと、写真を撮るものとして思った。

最後に、この写真には少し悔いる部分がある。構図だ。券売機を中心に持っていきたかった。そうすると、よりバシッとした写真になったと思う。現像が仕上がったとき、うわあと思った。

最近もどかしいのが、フィルムに慣れてきて、ある程度予測が付けやすくなってきたからか、思うような仕上がりではなかったとき、少し気にするようになったことだ。

このときは、瞬間を逃しまいと、ささっと撮ったから、こういう構図になった。構図を狙える上で崩すのは良いが、選べない中で片方の結果が返ってくるのは、技術不足だということになる。

こうしてデジタル化しているわけで、トリミングして修正することもできる。そうしたっていい。やっぱりそうするかもしれない。だが、こういう構図だからこその発見をしてみたいとも思った。ある意味でそうした居心地の悪さは、まさに先ほどの「灰色の領域」を探求する始まりになるのではないか。見るたびに「良いのに構図…」と思ったりするのだが、しばらく自分でも見つめてみようと思っている。

Olympus XA + Kodak Portra 800