残り全部ジョエル・マイヤーウィッツ

慣れることと、飽きることは、同じく時間の経過を表しているようで、何かに適応して慣れている”状態”というプロセスの先に、飽きて興味を失ってしまったという結果があるという話なのかもしれない。

つまりは、大聖堂や石畳の道など、”ザ・ヨーロッパ”みたいな景観に対して、ほとんど心が動かなくなってしまった。「はいはい、その辺の大聖堂ね」みたいな投げやりな気持ちで、15世紀からある荘厳な大聖堂の横を通り過ぎ、図書館へ向かう。むしろ、「この図書館の導線めっちゃいいな」とか、そんなところで感動したりしている。

歴史を知っていれば、また違うのだろうか。歴史好きな人は、どのような目線でこの街を見ていくのだろうと想像してみる。だが、残念ながら、今のところ歴史と仲良くできる気配はない。それでも全然良いと思っているのだが、知ってみたいと思うこともある。とはいえ、好奇心のスイッチがなかなか入らない感じがある。

きっと歴史を知っていく際には、自身の好奇心のようなものと絡み合っていくようなプロセスがあるのだと思う。いや、むしろ、何かに興味を持つということには、そのようなプロセスが関わってくるのではないだろうか。

たとえば、図書館の導線に感動することと、とある人や文化の歴史にのめり込んでいくことには、同じような形の一般性があるように思う。自身が続けてきたことを振り返ると、そこにはいつも”発見の喜び”があった。

自分にとって、何かを発見することは、密やかで睦まじく、ふつふつと静かな熱に全身を包まれるような気持ちになる体験だったりする。

だとすると、興味を持てない事柄があるとして、それは性格や好みの問題というより、ただ先ほど書いたような”発見の喜び”が、上手い具合に結び付いていない状態であるだけなのかもしれない。思いがけず、それらが結び付いていく可能性は常に開かれてはいるが、永遠にその時が来ないこともある。そのような時が来るまで待っている状態を、まるっと”生きること”と置き換えてもいい。

ただ、思いがけなさというのは、何かに巻き込まれることを待つことであったり、流れに身を任せるということだけであるかというと、そうではないのだと思う。たとえば、「何事もタイミングだから」と言われると、そうとも言えるんだけど納得し難い。それは”待つ”ことが、この様々な事象が絡み合った想定外だらけの世界で、どっしりと巻き込まれ待ちをする受動的な態度だと言い切れないことと等しい。

なんというか、思いがけさなと、それでも手を伸ばすことの弁証法というか。そういったプロセスが、自分にとっての”待つ”という状態を表しているように思う。手を伸ばすことは「期待」としてそれ単体で存在しているというよりも、思いがけないことを許容しながらも、どうにか自身で手繰り寄せようとするというプロセス全体に含まれているものであると思っている。

プロセスと静けさの関連性について、最近はずっと考えている。たとえば、自分にとって写真とは、”写り”という結果だけではなく、撮る際の体験であったり、その後に誰かと対話することであったり、書くことまたは読むことであったりと、はてしないプロセスに組み込まれている営みのひとつであるのだと思う。

たとえば、Vivian Maier(ヴィヴィアン・マイヤー)という、アメリカのストリートフォトグラファーがいる。彼女はベビーシッターでありながら、膨大な写真をフィルムで撮り、そしてほとんど未現像のまま、この世を去った。フィルムが未現像ということは、自分が撮った写真がどのようなものであるか、本人は確認していないということだ。信じられない。自分もフィルムは大好きだが、同時に撮った写真がどのようなものであるか、いつも心待ちにしているのに。

思ったのは、おそらく、彼女は撮るという体験を、そして撮ることの前後にあるあらゆる対話や変わっていく事象を重視していたのではないだろうか。だからこそ、撮り終わった写真という結果を見ずに、次々と写真を撮っていった。意外と本人に聞いてみたら、「ほら金も掛かるしさ、現像とか怠かったんよ〜。うち、怠いこと嫌いやねん」とか言うかもしれないけど。

自分が”どう撮るか”をよく気にするのは、どう撮ったら”いい”写りになるのかという技術的な話ではないのだろう。撮る瞬間の自身の態度やあり方は、一過性のものではなく、連続した時間の流れの中にある。だからこそ、日々の対話や読むもの、こうして書くことが結び付き、営みとして生きていくことに組み込まれる。彼女の写真に触れると、そういうプロセスと繋がる感覚があった。

彼女はセルフポートレートも数多く残した。というか、その写真が有名であると思う。彼女の写真はすごく好きで、今後もそれらの写真を見て、自分も撮り、色々と言葉を尽くしてみたいと思っている。

同じく、またアメリカのストリートフォトグラファーから考える出来事があった。今月はアンダルシア地方のマラガへ行き、ピカソ生誕の地ということで、マラガ・ピカソ美術館へ行ってきた。同時にとある写真展が行われており、ピカソも好きだが、その写真展の方ばかりを食い入るように観てきた。

それはJoel Meyerowitz(ジョエル・マイヤーウィッツ)が、ヨーロッパを旅した際の写真の展示会だった。なんというか、めっちゃ良かった。彼のことは初めて知ったのだが、彼の写真はすごく好きだった。

騒がしく、ときに暴力的な写真となりやすいストリートフォトグラフィだが、彼の写真には、どこか静けさがあった。それは緩やかな秩序の中に、物語性を盲信しすぎない敬意が存在するように感じたからかもしれない。

そこから考えてみると、ストリートフォトグラフィは結果(写り)に対して、「この写真には物語性がある」と、簡単に言ってしまいたくなる罠があるのではないだろうか。写っているものを見て物語を想像する、または実際にどうだったのか聞いている場合も含めて、それが事実であり固有の物語だとするのは、なんだか暴力的すぎると思うのだ。

物語を想像することが悪いと言っているわけではない。ただ、個人の物語性に全てを帰結すると、そこには発見の余地がなくなっていく。その物語のシナリオが本来のその人であるならば、”正解”は一つとなり、動かし難いものとなる。そうして、対話は開かれず、変わらないことでアイデンティティを保とうとする道へと繋がっていく。瞬間を写す写真であるからこそ、自分は写真はもっと軽やかに変化するものであってほしいのだろう。

たとえば、人は文脈から逃れられない、と思う。何かを作ったとして、作者がどれだけ「ほら作品だけ観てくださいな」と言ったとしても、それを観る人はあらゆる文脈を考慮する。それは作者のことや意図だけではなく、その日の気温や食べたご飯、気になっているあの人のことなど、そういう事象も含む。それは作者だってそうだ。あらゆる文脈を経て、作品は作られる。というか、作品に限らずとも、人の営みや話す言葉などあらゆることにも言えるんだろうけど。

写真は瞬間を写すことで、そういった文脈を飛躍する行為と言える。同時に、新たに文脈を作り上げていく。だからこそ、物語性に帰結しやすいし、誤読の暴力的な一面が強化されやすい。ただ、誤読が必ずしも悪いのではなく、そこから生じた新たな文脈は、最初に書いた”発見の喜び”を伴うものでもあると思う。

やはり自分は、個人の物語性へと話を簡単には帰結させたくはないのだけど、文脈を再形成する作用は、写真の余地であり、おもしろい部分でもあると思った。

ある人から写真のフィードバックで、「静けさがある」と言ってもらった。それがなんだかすごく嬉しかったし、自身の写真を表している言葉の一つでもあると思った。静けさは、そういった文脈に纏わる思考のあがきでもあるのかもしれない。だからこそ、ジョエル・マイヤーウィッツのような写真に惹かれるんだろうし、彼の写真を見て生まれた文脈をまた新たに再生成しながら、引き続き生き延びていこうと思う。

スペイン暮らしも残り数日となった。出国したあとは、色々あってなぜかブルガリアの小さな街に滞在することとなった。ブルガリアといえば、ヨーグルト。その情報だけを持って行ってくる。