06.16(月)
・初夏感。流石に歩くと暑いけど暑すぎず、ちょうど気持ちの良い気候。Tシャツ1枚で過ごす心地良さに気付いた。
・編集者の仕事というのは、共に悩み、おもしろさを発見していくことに尽きるんじゃないか。これはすごく自身にとって大事な視点だと思った。今、おもしろさがどんどん脅かされている。せっかくなら苦しんで、人生は死ぬほどめんどくさい上で、クソおもしろいじゃんという態度で、はたらいていくぞという気持ちだ。
・揚げ餃子は料理として欠陥品じゃないか。餃子は揚げない方がうまい。断固として餃子を揚げることに反対する。
06.17(火)
・閉鎖的な環境にいる集団において、敵を作って結束するという構図は避けられないものなのだろうか。もうほんとに悪循環ばかりで、うんざりしてきた。なるべくそういうものとは距離を取って、残り少しを過ごしたい。
・誰かを”おかしい”と言うとき、”おかしい”のはその対象の人なのだろうか。この社会に適応しようとしている方がよっぽどな気がしてきた。よくわからなくなった。
・自分が強い不快感を覚えるのは、距離の近さに集約していそうだ。というか、自分は自由に距離感を変えたくて、そう言う感じでいたい。だから、眉間に皺寄せた人がそういう行動をしてくるのが、嫌すぎるんだろうね。
06.18(水)
・「〜だから良い」という帰結ではなく、淡いを探求できたこと自体を豊かだと感じていたい。豊かさという見方が自分には腑に落ちている。
・抱えきれないことがいくつかある。罪悪感とコンパッションが混ざり合った気持ちを、今はただ味わっていようと思った。
・もうすぐこの職場での勤務が終わる。ここ最近は平和だったのだけど、ほんとに色々と酷くて手を焼いたモラハラ気味ジジイとは最後だったのだが、「色々とほんとにすまなかった。ごめん」と言われて驚いた。「謝れるんだ、えらいね」という気持ち。期待値が低すぎるので、謝れるだけでなんてすごいんだと感動。せっかくなので、最後に握手をして別れた。わざわざ握手をするということが好きなのだ。でもそれは、許す、許さないでは捉えていないからだ。まずは、ほんとに自分は良くやったと思う。対話も、反抗も、それでもフラットに接することを続けたのは自分だ。そして彼自身のことというより、この一連の現象を考えてみる。自分の後に新しい人が来たら、きっと彼はまた同じことを繰り返してしまうのだと思う。彼を欠陥人間として責めるのは簡単であるし、そう認定しなければ、こちらもやってられないという状況もある。会社という組織もそうだが、そこで働く人も含めて、個人の責任としてやっていくものなのだろうか。したくでもできないとなってしまうのが、人間であるのではないか。おもしろい収穫であったなと思うし、とにかくよくやったと思っている。俺は素晴らしい。
06.19(木)
・「違国日記(ヤマシタトモコ)」は自分にとってのバイブルのような大事にしている作品で、「せっかくなら苦しんで生きたいでしょ」という作中の言葉を時折思い出している。そして、またそうだと思う。苦しんでいることを「苦しい」と表すだけではなく、事象を淡々と書くような文章に惹かれるし、自身もそうでありたい。他人事のように語り、書くこと。
・編集や出版にまつわる本を読みたいタイミングが来ている。長い移動時間があったので、「ここだけのごあいさつ(三島邦弘)」を一気読みする。最近の働くことに関して思うことと重なる部分がある。経営と現場の違い。どちらも「できねぇよ」じゃなくて、お互いの言い分を出し合って、その上で調整することを問い続けることなんじゃないか。自転車操業でやっていくことか。生きていたから、いつの間にか自転車のハンドルを握っていたので、響く部分があった。不合理さをおもしろがっていたいし、それは何度も言うように、自身にとっては淡いを探究していくことであるのだ。
・サザエさんのノリスケって編集者だったんだ。この人なんなのってずっと思っていたけど。「ノリスケ」で調べると、サジェストで「クズ」と出てきて、酷くて笑った。
06.20(金)
・梅雨の季節の晴れはいいものだ。
・余計なことをするのは楽しい。そうだ、楽しいのだ。
・「背筋を伸ばす」という言葉、整体に行ってからは「骨盤を立てて背骨を起こす」なんじゃないかと思っている。
・今いる組織において、経営やマネジメントが悪すぎるのはほんとにそうなのだが、そもそも管理を上手く回していくという見方で改善されるものなのか。会社というシステムは欠陥が多すぎる。凡庸な悪。他にないものか。「ホワイト企業ってなんだ?」って問いができた。
06.21(土)
・「なんかそういうのやってみると良さそう」という直感を信じている。
・寂しさについて考える。惜しむということ。
・反射神経ではなく、自身で精査して推敲したものを書いていたい。
06.22(日)
・今の職場の最終出勤日。働くこと、組織のあり方、悪口、対話の有無など、問いの流れの中を漂流した2ヶ月間であった。ほんとに大変だった。きちんと最後まで嫌なこともあったのが、ここらしくて笑えた。普段は周りにそういうことを言ってくる人がいないから、他の場面でもそうだが、嫌な言い方をしてくる人がいるとびっくりしてしまう。でも、同時に気に掛けてくれた人もいて、自分はコンパッションを確かに受け取っていたんだなと終わってみて気付いた。悪循環の中にいると、自身もその流れに巻き込まれてしまうことを痛感した。だが、こうしてコンパッションに気付いていたいし、「やってみたらできるよ」と”根拠なく”言えてしまうような循環に自身で変えていたいと思う。悪循環はもうたくさんだ。否定なら誰だってできるつまらない行為なのだから、シンプルに背中を押しながら共に考えるか、批評として真面目ではなく真摯に言及することをしていたい。
・思ったのは、出来事に対して最初は戸惑い、憤怒する反応をしてしまってもいい。そこを無理に変えなくてもよい。ただ、その後に見つめてみると、何か発見があって、その発見自体に対してはおもしろいと必ず思えるはずだ。そういったプロセスが自分には重要なのだろう。