日記的雑記帳「カイエ」|2025.06.09-06.15

06.09(月)

・「人生は楽しい」と一言で結論付けようとする生き方を、自分はあまり良いとは思っていない。身の回りの豊かさを毎日発見する一方で、生きることは死ぬほど面倒くさいと感じていたい。だからこそ、楽しいか楽しくないかの「淡い」を静かに待ちつつ、探求していたいのだ。

・思考が捗る音声というものがある。友人同士が喋っているラジオを聴いていたら、たくさんの言葉が自身の中から生まれていった。

・不動産屋とのやり取りで、テキスト(というか全般的な)コミュニケーションが絶望的すぎるところが多すぎて、大変萎えている。こちらが質問をして無視されるなら仕方ないが、質問への回答がない上で、探している条件とは全く違う物件のリストをご陽気に手動で送り付けられても、お互いにメリットがなくないかと思ってしまう。不動産屋への期待値が下がりまくっているので、たとえば一つでも受け答えが成されるだけで感動するようになってしまった。同時に、自分が普段接する友人たちなどが、どれだけ言葉を考えて生きてくれているのか、有り難みを体感している。

06.10(火)

・日向坂に新しく入った5期生のリレー配信のアーカイブを見る。4期生が加入したときもそうだったが、こんなに増えて、絶対に覚えられないと思うのだけど、結局覚えてしまうんだよな。

・働く人たちを眺めていて、今の自身もそうだが、働くことは「そこにいる」という役割を持つことでもあるなぁと思った。存在の実感とも言える。何の役割も持っていなかったとしても、人は存在して良いと思うのだが、人は承認というものではなく、存在の実感を求めて働いたりするものなのかもしれない。だからこそ、自力で存在の実感を持てたとしたら、それはすごいことだ。

・作品のタイトルに「無題」を付けたくなる気持ちが、ようやくわかった。長年「無題ってなんだよ」と思っていたが、それらしい物語性を短絡的な言葉で示すことで、作品は安易にチープになり得る。そうなるくらいだったら、いっそ「無題」と言葉を尽くすことを放棄する、あるいは、他の部分で文脈を形成しようとするのだろう。

06.11(水)

・いよいよ身体が限界を迎えつつあり、数年ぶりに整体へ行った。結果的に身体は軽くなり、色々と発見が多すぎて、おもしろかった。施術中に「このことは書いておきたい」と思い、何を書こうかと、自身の身体の変化を見つめながら考えていた。

・「現実さ」「経済を回す」、どれも好きではない語り口だ。そのどれもが、二元論的で、淡いへの探究が見えないから。とはいえ、その言葉を発した人も、色々経てそう考えたくなる経緯があったのだろうとも思う。とはいえ、淡いを探求することを好ましく思うのは、少数派なのだろうか。あまりにも、皆同じような語り口をしていて、そういう人ってひょっとしたら少ないのかなと思った。

・今いるところの期限が迫ってきたので、いよいよ住みたい家を見つけたいのだが、良い場所が見つからない。はあ、これからどうしようって感じ。大体どうにかなるのだけど。でも、しんどさを感じる。色々あったけど、最終的には良かったねと思える家に住みたい。友人に祈ってもらえたのが嬉しい。

06.12(木)

・整体前は毎度寝起きで絶望していたが、今日は確かに眠いのだけど、絶望感はなかった。

・よく話す同僚に何気なく発した言葉を、横で聞いていた別の同僚から「ほんとドSですよねぇ」と言われた。そんな口調で言った覚えは全くなかったが、思い返してみると、確かにそのように聞こえる表現だったのかもしれない。誤解が生まれる場面に立ち会ったような気持ち。

・友人が作った新作のZINEが届いたので、家探しを放って読んでいく。日記と散文が混じり合っていて、その混ざり方が絶妙で良いなぁと思った。友人が考えていたことを読めること自体が嬉しいし、あぁ他者ってこういう生活を送っていたりするのかというおもしろさもある。お父さんが毎回ナイスな食材を買ってくるのが素晴らしい。料理をめっちゃしている。自分は人生で一度も塩漬け肉を作ったことはない。家を借りたら、食べ物を塩漬けにしてやるという夢ができた。

06.13(金)

・確かに寝起きは超眠いのだけど、単純に睡眠時間が少ないからで、身体的な怠さが伴う感じは減ってきた気がする。

・深夜に突然、「TPOってなんてクソみたいな考えなんだろう」とムカムカとしてくる自分が可笑しい。誰かに言われたわけでもないのに、「なんだその悪しき日本文化が煮詰まったような言葉は」と思い始めてしまった。

・「私という人間の生き方を問う時間がある。私はそれをしあわせに思う(「生きる力が湧いてくる」野口理恵)」そのこと自体を感じられるということは、なんと豊かなことだろうか。だからこそ、自分も問い続けたいのだろうと思えた。

06.14(土)

・何かを買うときに経費だと思えるかどうかは、自分にとっての仕事がどの範囲になるのかの基準になりそう。

・自身の要望を通すため、色々と立ち回ろうと容易に自分はしてしまうのだけど、もしかしたら、みんなそんなことしてないのかと思った。言えないということもあるだろうが、「別にいっか」って感じなのかもな。

・いつの間にか、Netflixで「WATER BOYS」のドラマ版の配信が解禁されていた。確かずっとなかった気がする。めちゃくちゃ嬉しい。学生時代すごく好きで、定期的に繰り返し観ていた。もう20年以上前のドラマなんだ。懐かしすぎる。今観ると何を感じるんだろうと、観ていくのが楽しみ。

06.15(日)

・銭湯やカラオケが嫌いなのだが、日本ではこれらを好む人が多い気がして、「どうしてだろうか」とたまにぼんやりと考えている。自分にとってこれらは、単につまらなくて不快である。世界にはもっと楽しいことが溢れている。だが思ったのは、銭湯やカラオケ自体というより、腑に落ちていない行動をすることへの嫌悪感が鋭いのかもしれないということだった。

・組織について考える。熱意がある、真面目に取り組む人だけではなく、何を言っても響かない人もいる。今日は思わず強く言ってしまい、自身の在り方を考えた。思い返すと、あまりにも色々と酷かったので、疑問を投げかけたのだが、流石に疲れとイライラをぶつけてしまいたかったのはあったんだろう。でもまあ仕方ない。自分も完璧ではない。そして、おそらく改善はなされないだろう。では、人に期待しないという態度だけで良いのだろうか。確かにベースは期待せずにいることで、無性にムカムカする気持ちは減るのだと思う。だけど、組織の中で自身が立ち回ったとき、それらにどう反応するかは、自分が関わる範囲ではない。できることと言えば、待つということなのだろう。変わるのを待つというよりも、他者の反応まで自分で抱えようとしない節度みたいなことだ。それよりもそういう状況込みで立ち回ることで、少しでも自分がおもしろく思えたり、良くなってほしいと思える人とどのように快適に働けていけるのかを考えて続けたいと思った。

・Amazonで頼んだ品物が配送ミスで違う場所に行ってしまい、少し面倒なことになった。そうだ、当然だと思っていたけど、まず荷物が届くこと自体が嬉しいことなのだ。スペインでは考えられなかっただろう。こうしたサービスを平気な顔で使ってしまっているけど、ドライバーとして働く人がいて荷物が届くということを忘れてしまうそうになる社会は豊かなのだろうか。何かが変だ。そうなると、身の回りのあらゆるサービスもそのように感じられる。それらを認知し続けるのは膨大な負荷が掛かる。そして気付いてないフリをする。だとすると、根本的な改善を図ったり、自分がおもしろいと思うものを作り続けたりする上で、こういう身の回りを動かしている仕事をたまに担ってみるのが、ありがたみがわかってちょうど良いのかもしれない。