06.02(月)
・朗らかにはたらく方が絶対良いよ。
・話を深めていくというか、事象を挙げて分解していく共同作業としての対話は、どうしたって単純におもしろいわけで、それはそれができる人と話したくなるものだ。
・日本酒を飲み、真っ先に文章が書きたいと思った。ビールより日本酒の方が健全で楽しい酔い方をする気がする。夜中にいい文章を書けて良かった。
06.03(火)
・仕事がハードになっていくほど、消費しないとやっていけなくなるのは、そういうものなのだろうか。
・身体を動かすことについて考える。それ自体を楽しいと思ったことはなかったけど、意識してみると運動や筋トレが続けられるかもしれない。「何かのため」では続かないことが多かったから。そして、基礎代謝という概念も気になった。基礎代謝を高くすると、慢性的な疲労感は減るんだろうか。
06.04(水)
・当然のように「疲れる」と言っていたけど、本当に疲れているのだろうか。肩こりが欧米ではあまりないと言うように、疲労という感覚も実は不確かなものであると、ふと思った。つまり、疲労のようなものを感じたとき、さらにその感覚を分解してみて考えると、別の事象が当てはまったりするのかもしれない。
・人の悪意とは何なのだろう。なんとなくイメージはできるが、明確に「悪意」と呼べるものなんて、果たして存在し得るのだろうか。
・昼寝なのに、怖いぐらい寝てしまった。睡眠が身体を乗っ取ってきた感じ。
06.05(木)
・「古くてあたらしい仕事(島田潤一郎)」がおもしろくて、読書会用の本を差し置いて読んでしまう。便利さが悪というわけではなく、そこだけにすがる世界線で生きていきたいのかというのは、良い問いになりそう。
・人間が自然を文化に組み込もうとするのは、世界の理不尽さに対して納得する行為なのかもしれない。理不尽さは単一の論理ばかり考えていると、許せなかったりする。避けたいものだ。でも、理不尽さってどこからでもやってくるとするならば、そこに対抗するためには反発ではなく、自然のままならなさを知り、納得していくことが必要になってくるんだろう。
・家計の見直しをAIと相談していく。身体のことや睡眠と同じく、そうだよなぁと納得するのだが、やってみると予想通りにはいかないものだ。
06.06(金)
・事象を知ろうとしない上での諦めは、ただの無知と怠惰であるが、ままならなさを知った上の明らかにする意味での諦めであれば、「いい感じの螺旋」だと自身が納得できるのかもしれない。
・元気で楽しそうな人がいたとして、その人にとって今の環境が合っているからこそ、そういう一面が出てくるのだとすると、環境によっては不満をただ口にする人になるのかもしれないなと思う。
・部屋の窓を開けると、風や匂い、音が入ってきて、豊かな気持ちになった。
06.07(土)
・数年前の写真を探していて、色々と当時を思い出す。沖縄に住んでいたのは、もう6年ぐらい前なのか。25歳ぐらい。若い。色々やっていたんだなぁとしみじみ思う。
・短期的な高刺激よりも、穏やかな日にソファで本を読んだり、書きながら自身の螺旋を降るようにしていい感じの文章を書いたり、静かにふつふつと気持ちが高まるような対話が生まれていく瞬間に立ち会ったりする方が、豊かではないかと思った。
・やっぱり、商業本を出してみたいと思った。書き続けていたい。そう思えた。
06.08(日)
・呪言を呟く人を初めて真横で目にした。たまたま聞こえてしまった。自分が対象ではないが、ゾッとした。その上で、きっとその人が抱えきれない何かがあるのだろうと思った。とはいえ、自分だけでは抱えきれなくて、周囲にこんなことがあったと話を聞いてもらった。それぐらい呪力というものは、エネルギーを持っていかれるのだと思った。
・好きだった作家のポッドキャストの内容が、告知ばかりになってしまい、聞くのをやめてしまった。元々は、その人の思考の螺旋が好きで聞いていたた。告知ばかりになるのは、それだけその人が何かを作り続けているんだろうから、いいねと思うのだけど、ポッドキャストとして聞こうとは思わなくなるものだった。告知の塩梅について考えた。