日記的雑記帳「カイエ」|2025.05.19-05.25

05.19(月)

・完璧主義と二元論をやめることって、シンプルに豊かさに繋がるんじゃないかと思った。

・修理に出したMinolta CLEは、やはり露出計の不具合があったようだった。直せる人がいるのはすごいことだ。

・コンビニ弁当に貼られたシールには「さらにおいしくなりました」と書いてある。おいしいかどうかは、食べる人が感じるものなんじゃない?

・「それってなんだろう?」と問うことが悪問だとすると、問いが良い感じに広がっていくのは、どんなときだっただろうか。まず事象に気付いて、その事象を書くことから始まる。書くときは「うーん、こんな感じだろうか」と自分に真摯に問いかけながら書く。そうすると、気付いたら自然と腑に落ちるような言葉が出て広がっていく。結果から求めるのではなく、その瞬間に真摯に耳を傾け、頭の中で編集を繰り返しながら書く感じだ。

05.20(火)

・我慢や忖度をすると、心を殺しているようで嫌だった。だが、ある種の「編集」と考えてみると、「その場でどのように置くか」という、最近自分が考えていることに近いと感じられた。試してみるのもおもしろそう。

・静けさは好きだけど、人間は適応していくもので、雑多な世界でもやっていけるようになるものかもしれない。

・「長年の友達」という言葉を「長友」と見間違えた。

・AIの進化に伴って、倫理は変わっていくだろう。そうなると、今の自分たちでは想像もつかない認知を人間はしていくようになるのかもしれない。怖くもあり、楽しみでもある。

05.21(水)

・ふと調べてみると、パンデミックの収束は約2年前だった。ずっと昔のようで、物凄く最近であるようで。アフターコロナの世界は全く別物だと当時は言われたが、自分はあの時期に大きな変化があったと言えるし、世の中も色々と仕組みは変わったが、そもそも日付が変わっていくとはそういうものである気もする。だからこそ、今後もずっとその感覚を思い出し、捉え続けることになるのだろうと思う。

・組織において、ノイズは必ず生まれてくるものだ。

・悩んでいる人、問い続けている人はおもしろい。そういう人を好んでしまう。それは仕方がない。一緒にいて楽しいもの。というか、そこに対するおもしろさを自分が見出せるということだ。逆に言えば、問い続ける姿勢がない人については、どこをどうおもしろがるか、まだ見出し方を模索中だということでもある。おもしろさとは、その人自体を認めることではなく、自分の感性がどれだけ豊かであるかということだ。それならそれでいいのではないか。好ましい人は自然と認められる。そうでない人をおもしろがるときは、敬意を抱いているようで、どこかもったいないと思っていたのではないか。そう考えると、そのもったいなさに触れずに、こちらがおもしろがっている立場であれば、うまくいくかもしれない。

05.22(木)

・早く起きても、遅く起きても眠いのなら、早起きして創作をする方が気分的には良くないかと思った。とはいえ、自分はメリットとデメリットを考慮した行動基準をあまり保持していない気もする。

・本の出版レーベルを個人で立ち上げてみるのもおもしろいのではないかと思い付いた。

・AIがさらに進化していくと、物事の基礎を学ぶ必要性が薄れてくるんだろうか。そういう世界は一見怖そうで、実は今からは想像できないおもしろさに包まれていくのかもしれない。どのみち人間にできることは、個人的な発見を元に、素材を生み出し続けることだろうから。

・物事が片付いた後の安心感は、まさにビールを飲みたい気分だ。

05.23(金)

・仕事における問題点は、誰でも容易に”必死になれてしまう”ことにあるのではないか。眠れなくなるほどに。今までは仕事にハマれる人なんて、ごく一部だけだと思っていた。だけど、やってみたいことは無限に生まれてくる。空いた穴を埋める要員はいつだって募集中である。そうなると、ハマるのは構造的に容易かもしれない。だからこそ、たくさん働いたことを経験として糧になんかしている場合ではなく、どのように手放していくのかを問い続けることが豊かさなんじゃないか。

・「問いの立て方」そのものが違うんじゃないかという機会に、自他共によく遭遇する。だからこそ、分解して螺旋を描くように問い続けたいと思っている。

・失うことを怖がるのは、愛なのだろうか。たとえば、愛する人が自死を選びたがったとき、絶対に止めたいと思ってしまうけれど、それが愛なのかはわからない。何が本当かは少し横に置いておくけれど、もし本当に愛しているのなら、相手のその苦しさをわかり得ないという部分まで到達するのではないか。どうしたって止めたいのは、自身の気持ちからである。それを伝えることもできる。でも伝わるかはわからない。愛することを続けたとき、その先には自分ではない他者がいるという孤独に気付く。これは伝わる伝わらないのが問題ではなく、愛を無条件に最上のものと持ち上げるのでもなく、ただ一人の人として、目の前の人と対峙したときの話として、問い続けたいと思ったのだ。

05.24(土)

・今日は久しぶりに、”しっかりと”やる気が出ない。

・心地よくはたらくのって、難しいことなのだろうか。

・家族は呪いだ。紛れもない圧倒的な本質ではないか。だからこそ、それでもマシな家族を作ろうと試してみる、みたいなことなのかもしれない。自分は「何かを試してみる」って態度は、とても好きだ。ただ、それが家族になると、とても残酷なものになるとも思う。同時に人が試してみようとする祈りが混ざっているのかと思えると、少しだけ差す光はあるのかもしれないと思えたのだった。

05.25(日)

・身体を動かす仕事をしてみると、没頭して目の前に転がってきたものを淡々と処理していく感じだが、ふと身体の感覚を見つめてみると、身体を動かすこと自体に爽快感のようなものがあることに気が付いた。

・はたらくことは容易に頑張れてしまうとすると、たとえば「手を抜く」ということは、カオスな状況でも待つことができるということなんじゃないか。頑張ることは簡単であるからこそ、そうじゃない部分を見てみたい。