日記的雑記帳「カイエ」|2025.04.21-04.27

04.21(月)

・「何がしたいのか?」って、悪問だと思うんだよなぁ。まるでクリティカルな問いに見えるかもしれないけど、そこに当てはまる、わかりやすい”答え”を用意しようとする思考になるから、その間にあるものがこぼれ落ちていく。大事なものをわかりやすいものにすり替えている。確かに少しの間は楽になるかもしれないけど、根本的な部分に届いていないのではないか。

・荷物を整理していくと、頻出ではないが、ここぞという時に必要になってくる物がたくさんあることに気付く。手放してしまうと、大事な場面で困ったりする。でも、こういう物は見境なく増えていくんだよなぁ。「うわ、今月なんでこんなにお金使ってるん?」と毎月のように思っているのに、こうして確認してみると納得する。必要最低限の物だけ持つと決めていても、そういう微妙な線引きの物に対する目利きは甘くなりがちだ。気を付けたいと思って制御できる話ではないんだろう。不安の捉え方が関わってくる気がする。

・友人たちのポッドキャスト「ひゅるるるらじお」が更新された。出産にまつわる話。出産した当日に感じたことをこうして話したり、他にも文章にしておくことは、本人や周りにとっても、人類史としても貴重である気がする。たとえば、たまに聞く話として、言葉にすることで、全てを保存することはできない。だから言葉にしない、またはあえてしなかったという話がある。だが、そういう話になると、個人の感情を否定するわけではなく、「ほんとにそう言えるのだろうか?」と、現象自体へのモヤモヤが生まれた。全てを保存し得ないという前提に立った上で、そのときに感じたことを形に残すことは、変わらないことを目指すわけではなく、変わってしまうこと自体を尊ぶころである。そして、残したものはいつか必ず掘り起こされていく。そういったプロセスを生きることと呼ぶんじゃないかと、自分は思うのだ。だからこそ、今回も2人が生きていることがたっぷりと感じられる回になっていてうきうきした。

04.22(火)

・くしゃみが出る。鼻むずむず。まだスギの花粉症だろうか。ヒノキの花粉症には絶対になりたくない。このときばかりは、神に頼みたい気持ち。

・ZINE制作において、長らく煮詰まっていたところが、ようやく進んだ。ずっと先延ばしにしてダラダラと進めてきたのだが、いざ向き合って取り組んでみると、意外とするすると決まっていくことがあった。重く扱っていたものが、意外と軽やかに思えることってあるなぁと実感した。

・開いた読書会で、とてもたくさん笑った。倫理の話なのに。誰かの思わぬ明るさに笑ってしまうことはあるが、愉快さの効用とは、語り口を自在に変えられる部分にあるのかもしれない。「読んでいくうちに気絶した」というメタファー、おもしろい。自由と自在ってなんだろうか。「サリエンシー」という言葉が、流行語と化してしまった。

04.23(水)

・明日からの新しい仕事に備えて、数年ぶりに髭を剃った。仕事のために髭を剃るなんて、日本はまだルッキズムの差別社会なんだと萎えていた。だが、剃ったら負けみたいな思考より、いつでも生やしたり生やさなかったりできる余白があった方が、今後良いかなと考え直して決めたのだった。とはいえ、実際に剃るときはなんだか感慨深かった。剃ってみると、口の位置がかなり下に見えることを除くと、意外と違和感がなかった。

・帰国して世話になっていた友人の家を出た。転々と色んな場所に住んできたが、いつでも最後の日は、静けさのある寂しさを感じる。駅までの道のりで、嫌味な言い方ではなく、「ヒロさんも相当変わっている方だと思うよ」と言われて、「そういうものなのか」とフラットに思った。サービス業でたくさんの人と接してきた人が言うのなら、自分は平均値としては外れている部分に入る人間と言えるのかもしれない。自分では自分のことだから、何もかもが”普通”である。世間的に何が”普通”であるのか、ほんとにあまりピンとこない。他の人がどうだろうと、そういった影響は無意識でも受け続けると思っている上で、好きなものは好きだし、嫌なものは嫌であると思っていたいとは常に考えている。第三者からの評価を受けたいわけではないけど、こうやって聞くとちょっとおもしろいなと思った。

・新しいことは緊張する。長らく、緊張や不安とは完全に消し去ってしまいたいものだと思ってきた。だが、そうやって消してしまえるものではないのだろう。そうして明らかにしてみたことで、緊張感を抱えたまま、程よい刺激として取り組める事象があるのだと思えてきた。まだまだ「いやどうしよ」と思うことだってあるが、飲まれる、飲まれないの境界線があるわけでもないのだから、それでいいかと思っている。

04.24(木)

・新しい仕事が始まった。久しぶりに、いわゆる”人間関係”の渦中に巻き込まれた感じだ。人間模様を観察していくような環境だと捉えてみたい。世の中にはたくさんのはたらく人たちがいて、自分の近しい人たちではまず見ないような倫理と態度を当然のように纏っている人がいるのだ。対話は成される、成されないの次元ではないのだなぁと実感している。同時に相対的に見すぎるわけではないが、身近な人たちがいかに素晴らしく、愛しがいのある人たちなのか、これからたっぷりと気付く機会が増えそうだと思った。

・久しぶりによく身体を動かして、自分の声を聞きながらも、人と協力して作業を終わらせていくこと自体は、わりと悪くなかった。

・「You 君がすべて」のシーズン5がついに配信された。ジョーはどうなっていくのか楽しみ。

04.25(金)

・大衆を学んでいるという感じだ。どうやら、とても大変なところに来てしまったようで、色々と話を聞いた。強い口調で管理しようとする人は、焦りや不安が強く、何かしらの傷を抱えているのかもしれないなと、実際にそういう環境に晒されてみて思った。とはいえ、それに黙って耐えるわけではなく、粘り強く言い続けようとは思うが、従わないけど、敵ではない人として協力できたらいいなと思っている。自分は楽しく何かを遂行できたら良いと思うから。

・経験則というのは、あまり鵜呑みにしたくないなぁ。それは自身の経験に対してもそうであって、これから経験をどのように取り扱っていくのかは、試されるんだろうなと思う。

・密やかな情熱を持っている人と仲良くしていたいよね。

04.26(土)

・ここ数年で対話を繰り返し続けたこと、スペインや海外で暮らしたりしたことで、静かに土台が熟成されてきたことに気付いた。これは無理だろうなということが、意外と出来てしまったりする。

・ミートボールが好きだという人に、人生で初めて会った気がして、どうしてもツボだった。なんかかわいいし。気のいい人だったから、ミートボールたくさん食べたからそう育ったんだろうなと思ってしまった。

・仕事で配られる弁当、周りは不味すぎると言っているが、期待せず食べてみると、全然美味しいじゃんと思った。だから食べる度に、「美味いけどなぁ」と思えて豊かだ。

04.27(日)

・「コパ・デル・レイ」の決勝で、バルセロナ対レアル・マドリードのクラシコを観戦。バロンドールはペドリが取ってくれ。見事なバルサの優勝であった。いやぁ、おもしろかった。最高。審判が試合をよく裁いていた。審判の振る舞いを見ていると、仕事というもの自体に結び付けて考えたくなる。今回の審判のように、流すところは流して、下した判断には粘り強く説明する態度でいることで、結果的に良い試合になっていく。だけど、荒れるような試合にしてしまう審判は、説明や受け流しをせずに、カードを出すだけだったり、選手の挙動全てに過剰に反応している。つまりは完璧に管理しようとすると荒れていくのは、色々な仕事の事象に通ずる気がした。

・待つ、見守ることが、どれだけすごいことか。

・文章を読むことが好きだ。そこに情熱を持っていると言ってもいい。ためらいや書き直しは、表面的には知り得ないものだ。だからこそ、本人がそう残したかったという祈りが含まれていく。自分はそれを嘘だとは受け取らない。文章にはそういった祈りという、密やかな情熱が詰まっているところがあるから、好きなのだ。