日記的雑記帳「カイエ」|2025.04.14-04.20

04.14(月)

・雹みたいなものが降ってきて、雷もすごい。勢いが激しすぎて、道路の車がハザードを焚いて止まるほどだった。

・状況が変わらず、なかなか決まらないので、落ち込んだり、焦りからくるイラつきもあったりした。でも、なんとかするしかない。落ち込んでもしょうがないと思った。こういうことは、自分の気持ちを封じ込めるようで、思いたくなかった。でも、自分はできることはやったわけだし、選べないことを落ち込んでもしょうがないと納得できた。また明日も淡々と続けていこう。

04.15(火)

・SpotifyのMacアプリ版で、ポッドキャストの再生済みマークが表示されない状態が数週間続いていた。「仕様変更だったら最悪や」と思い、問い合わせてみると、どうやらバグらしかった。それが先週。すると、今朝の更新で直っていた。ほんとに良かった。仕様変更で使い勝手悪くなるって、あり得るから良かった。

・毎週楽しみにしていた、「TAKRAM RADIO」のポッドキャスト版がなかなか更新されないなと思っていたら、3月末で終了していたようだ。急遽決まったみたい。最終回を別枠のポッドキャストで聞くと、なんだか寂しいなぁと思った。スペインのラ・コルーニャやジョージアのトビリシに滞在していたとき、バスに乗りながら、ひたすら聞いていた思い出がある。

・セルフポートレートについて話し合う。撮っているとき、確かに自分は人目を気にしている気がする。そういう焦りが出ているかもしれない。「ここで撮ったらおもしろそう」みたいな撮り方の可能性は、自分にはあるだろうか。

04.16(水)

・ようやく色々と決まったのだが、胸になんだか重みがある。どうしてだろうか。理由を求めて取り乱すのではなく、この重みを保持しておくというか、しばらく観察してみようと思った。

・楽しみにしていた、「ヒルビリー・エレジー(J・D・ヴァンス)」の読書会。著者の透明性は何だったのか。すごく読んで良かったけど、あまり共感はせずに読み進めていた。それは自分が政治に疎いからどういう立場の人なのか知らないでいる上で、そう思っていた。この本を読んで、比較する、負い目を感じるとはどういうことなのか、フラットにもっと聞いてみたかったな。

・経験が倫理を作る、苦労が権威になる時代は、確かに終わったのかもしれない。終わってほしいとも思う。人の経験が軽視されてほしいわけではなく、新たな道へ行ってほしいという祈りだ。

04.17(木)

・忙しいと露骨に焦ったり、急かそうとしてきたりする人がいた。そういう態度は好きではないのはある。だけど、「どうやらそういう人らしい」と認識しておくことで、やり取りはできるかもしれない。

・永井宏さんという、編集者やギャラリー運営など色々やっていた方を知った。もしかしたら、自分の今後やってみたい活動に近いことをしているのかもしれない。本を読んでみたい。電子化されていないのは残念だけど。

・長年の誤解。餃子はとにかくニンニクの効いた肉肉しいものが好きだと思っていた。だけど、キャベツなどの野菜が多めに入っている餃子の方が、旨味が引き出されているようで、そっちの方が好きなのだと気付いた。これは大発見。

・スローロリスという、マレーグマ以来のなんだかツボな動物を見つけてしまった。

04.18(金)

・AIに自身が書いてきた文章や写真などを読み込ませてみる。ある程度メモリを共有するようになったようで、違う話題でも以前共有した文脈を覚えていてくれるのでおもしろい。絶妙なニュアンスのことを聞くと、表面的なプロンプトだけでは腑に落ちるものが返ってこなかったりする。だから、その前提にあるニュアンスを作品を通して共有しておくと、また返ってくるものも変わるんだろう。自分はAIが言っていることを正解だとも、全て信じ込んでいるわけではない。というか、何が正解かという見方をそもそもしないし、したくない。AIとの付き合い方は考えていきたいし、AIを調整するという行為が意外と楽しいことに気が付いた。そうして思うのは、AIへの関わり方が変わると、AIもまた変化していくことである。だからこそ、そういった変化を自身への返しとして見つめることは、そもそも対象が何であってもやっていることだから。

・えげつない満員電車で、目の前のおじさんのカバンが膝に刺さって痛いのでモゾモゾ動かしてみると、それがポンっと抜けていった。ふぅっと思うと、その横にいた青年がニコッと笑って目配せをしてきた。そっちだったのか。殺伐とした車内で、少しだけ気分が良くなった。

・文化とは耕すことだ。つまりそれは、掘り起こすことであるのではないか。

04.19(土)

・公共性と身内感のあり方については、研究してみたい。集まりにおいて、どのように外部へと開いたとしても、ある程度の身内感のようなものは出てくる。外か内かとか、身内で固まることが悪かとか、そういう問い方はしたくない。でも、あまりにもこのような現象が出てくることが気になる。もちろん、自身にも当てはまる。防衛的な態度であったり、役割が明確であることで話せる場があったりするんだろうな。

・東京都写真美術館の「総合開館30周年記念 TOPコレクション 不易流行」という展示を見る。なんとなく見に行ったが、帰るときには、とても良い気分だった。久しぶりにググッと見入るような写真に出会ってしまった。山元彩香さんの青い写真。これは知っておいて良かった。青い絵とかも気に入りがちなんだよな。おそらく中判フィルムで撮られた大きな展示は、やっぱりいいなと思った。良すぎて、ウロウロして何度も見たりしていた。楽しかった。

・永井宏さんの「雲ができるまで」が手に入ったので、帰りの電車で読んでいく。小説のような書き方だけど、出てくる人物は偽名だとしても、その物語は身の回りで起こったことなのだろう。こういう書き方は出会ったことがなくて、不思議だ。だけど、永井さん自身の感じていることを知ってみたい気持ちが強く、他の本を読んでみたい。

04.20(日)

・何かを仕掛けるときには、定期的な文脈が必要だったりする。そういうの全然気にしてなかったなぁ。思い当たる節はありすぎる。こうやって知られるのは良いことだ。

・街中を歩く。みんなよく働いているよなぁ。

・フィルムの現像結果にあまり満足いっておらず、まだまだできないことは多いなと実感。光の読み方を根本的に勘違いしていたかもしれない。ぐわぁって感じ。苦しくて楽しい。決して、”苦しいのが楽しい”わけではないのだけど。