03.31(月)
・思えば、最近は手にした本を順当に読み終えることが増えてきた気がする。読書においては、「読みたくなる気分を待つ」という感覚があるので、積読として寝かせておいたりする。だけど、あまりにも積読が増えると、読書というより、発散としての買い物感が強くなってきた気がして、それはなんとかしたいなと思っていた。だからこそ、最近は読みたくなる気分が来たときに、そういった本をちょうど迎えられている感じがあるので、「今の自分はこの本を読んだ方がいい」という直感が育ってきたように思えて、ちょっと嬉しい。
・直近の動きで色々と決断することが多くて、とはいえなかなか進められず、その不安定さで気持ちが沈んできた。なんとなく、まだ見ていなかった日向坂46の「日向坂ちゃんねる」の動画を見て、メンバーたちの明るさに触れてみると、素直に元気が出てきた。
・ベルクで「わりとおいしいカフェラテ」という商品を見つけて、「わりとおいしいなら飲んでやろうじゃないか」と買ってみる。想像よりもずっと美味しかった。マーケティングにしてやられたと思った。ふつうにおいしいじゃないか。
・先週、友人たちと家で餃子を焼いて食べてから、1人で餃子をしこたま焼いて、たんまりと食べてみたい気持ちになっている。たまに買う、味の素の冷凍「ギョーザ」は、12個入りで簡単に完食できてしまう。そうなると、30個ぐらい焼いてみると、満腹まで餃子一筋で通せるかもしれない。
04.01(火)
・3年前に買って以来、何度も挫折して読む気になれなかった「暇と退屈の倫理学(國分功一郎)」を、自ら読書会の機会を設けることで、ようやく読み終わることができた。大半はモヤモヤして読みつつ、自身に問いかけることが多い読書体験であった。サリエンシー(まだ慣れていない刺激)について。確かに、サリエンシーに慣れていくことで平穏になり、それが退屈を誘発する。人はサリエンシーを避けたいはずだが、刺激が少なくなると今度は内側にある傷が掘り起こされてしまい、結果として退屈は苦痛となる感じかな。なんとなくの解釈だけど。うーん、納得するような、しないような。確かに、傷を掘り起こすことは苦しすぎる。だが、なんだかそれってとっても大事なことで、むしろ生きていることを表すような気がする。だから、退屈はその掘り起こしをするタイミングがやってくるスイッチ的な機会であるのだろうか。退屈の構造理解より、退屈をどう解釈するかを探りたい。だとすると、自分は退屈を良い機会だと思いたいんだろうか。
・「暇と退屈の倫理学(國分功一郎)」や「限りある時間の使い方(オリバー・バークマン)」などを読んで、安全と満足感についての問いが生まれた。「安全」を完璧な状態として目指す、ということは、果たして自身の満足に繋がるのか。たとえば、借りる家を探しているという今の不安定な状態があるとき、理想の家で安全に思索に耽る状態ができたとして、本当にそれだけで満たされるものなのか。確かにそれをゆったりと目指す気持ちは消そうとしなくて良いとは思う。だけど、外側の刺激がある程度あることで、むしろそれらが捗ると、ここ数年で実感した。それは人間の本性は人は求めるとかではなくて、自身のアジールとして安全、秩序というものがあって、そこでゆっくりと螺旋を育てることが最初にある。だけど、そのためには外部に出ていくことで、よりそれらが捗るという着地点なのだった。だからこそ、その刺激をどう入れ込むかという視点をこれから作った方が良くないかと思った。それは大変だろうけど、むしろ自身の中にベースは持っているということが、勇気を出す助けになるんじゃないか。
・玄関に新しい植物が置かれていた。こういう変化に気付けるのは豊かな気持ちになるなぁ。
04.02(水)
・近藤聡乃さんのエッセイ漫画「ニューヨークで考え中」の最新刊(4巻)、といっても2年前の本をようやく買って読めた。連載も一応追っているのに、単行本の方はすっかり忘れてしまっていたのだった。前巻に引き続き、パンデミック禍のニューヨークの話。猫の話も良かった。「暇と退屈の倫理学」を読んでから、「楽しむ」ということが頭に残っていたので、色々と繋げて読んでしまった。近藤さんが家の話を描いていて思ったのは、自分は「今後の家はどうしよう」と不安ばかりだったのだけど、確かにこれから家をどのようにしていこうかゼロからやり直せるのは、結構楽しいことかもしれないということだった。そういう気分も最初の頃にはあったので、それを思い出せて良かった。
・「マユリカのうなげろりん!!」のように、人のどうしようもなさというか、そういうおもしろさのある下ネタは好きだし笑えるけど、芸人でもそうじゃなくても、男のカッコつけみたいな下ネタはもう聞いてられないよな。
・色々と後回しにしてしまう自分との折り合いに苦悩している。
04.03(木)
・今シーズンのバルセロナは、ことごとく「ここは無理やろ」ってところにパスを通してくる。だから見ていて、いちいちおもしろい。アトレティコ戦は盛り上がった。ヤマルの凄さを考えると、体感でリズムを取ったドリブルするというよりは、目の前の状況を最後まで見極めてドリブルできる、さらにそれ以外の選択肢も観察してから判断できるところかもしれない。
・停車が荒めの電車で席に座って、「世界の適切な保存(永井玲衣)」を読み進めていると、視界に入っている人々の身体が、その度にガクンと同時に揺れている。知らない人たちの身体が共鳴している。
・二子玉川や用賀を通ると、「ROOKIES」を思い出してしまう。
・腹落ちすることが、勇気であり、動ける要因かもしれないな。
04.04(金)
・「エモさ」の正体について、たまに考えたりしている。自分はなんだか「エモさ」という捉え方が、あまりピンと来ていないし、おそらく好きではなく、それっぽさをなぞった写真はなんだか苦手という前提がある。儚さというものなのだろうか。自分はあまり共感できないのだ。たとえば、そういう作品に触れたとき、「そこにいるはずだった」という気持ちが、普遍性を呼び覚まして、その人の琴線に触れるんだろうか。人はそういう写真を好みやすいのだろうか。自分が写真を撮るときは、そういう普遍性を掬い取って撮ろうとしていない。おそらく、共感を前提にした物の見方だから、あまり好きではないのだろうか。好きではないからといって一蹴するのではなく、腑に落ちるような言葉をもう少し探ってみたい。
・書くことに関して。全てを書き尽くすことはできないと言われても、自分はそこにはあまり着目していないと。書き得ないことを前提に置いた上で、自分にとっての書くこととは、存在していたものを掘り起こす営みであるように思う。写真だってそうである。撮りきれない、撮った前後に存在するものがある上で、そこに儚さを覚えるよりも、掘り起こしたものを発見する喜びの方が、自分は見つめてみたいと思うのだ。そして、それは苦しくも楽しい。
・桜を撮るおばあちゃんのスマホのフラッシュが光る。
04.05(土)
・Netflixを契約する月としない月がある。今月は久しぶりに契約。すると、ホーム画面に「ホットスポット」が出てきたので、見てみる。脚本はバカリズムなのか。バカリズムって、ほんとに脚本家として売れているんだなぁと、今更かもだが実感する。脚本家ってどんな生活をしているんだろう。脚本家の人と友達になってみたい。とりあえず、「ホットスポット」は毎日1話ずつ観るようにしてみる。
・M-1で見てネタが好きだった、家族チャーハンが「家族チャーハンのラジオホームラン」というポッドキャストを始めていたので聞いてみた。最近聞いているポッドキャストを整理したら、芸人ばかりになってきたが、またさらに増えた。
・光浦靖子さんの「ようやくカナダに行きまして」を電車と風呂の時間で一気読みした。自分は留学でもカナダでもないが、スペインから帰国して、日に日に日本へ適応している中で、たまたま目に入ってきた本だった。そうだ、海外で暮らすのって、ほんとに大変なことばっかりだったと思い出し、少しギュッと苦しくなったりもした。だが、あとがきに、「笑顔でご機嫌でいることは自分も周りも楽にさせ、仕事でも家庭でも、生きることそのものを効率的にするんですね。こんなことを知らなかった(ようやくカナダに行きまして)」と書かれていて、もちろんこの言葉が出るまでに、凄まじい出来事が詰まっている上でだが、ブリコラージュの側面というか、現状あるものでやりくりして楽しく生きるというのは、いつでも忘れたくないなと思えた。読めて良かった。光浦さんの文章は初めて読んだけど、するっと読めてしまった。他のエッセイ本も読んでみたい。
04.06(日)
・駅までの道を歩きながら、「マユリカのうなげろりん!!」の最新回(#188)を聞いた。前回に引き続き、中谷さんが泣く回でおもしろすぎた。田舎道で歩いている人がおらず、その割に交通量が多いので、ここで笑いながら歩いていたら注目を浴びるに決まっているので、必死に笑いを堪えたいのだが、どうしても笑ってしまった。
・遠慮がちに伸びる手によって開けられた窓は、暑いのか寒いのかよくわからない風を入れ込んだ。
・「偶発生を楽しめってことだね」と、通り過ぎる誰かが言った。
・日記屋月日の『第6回「日記祭」』、数年ぶりに行けて良かった。たくさんの人たちが、日記などを書き、ZINEとして出版して売っている光景を目にする。最近は特に展示に行ったり、ものづくりをする友人たちと対話したりを短いスパンで繰り返していた。だからなのか、そういう刺激は頼もしくもあるが、同時にとても受け取れきれない何かを自分は抱えてしまったと思った。最初はよくある出掛けた後の疲労だと受け止めていた。だけど、ムズムズとする気持ちがあり、それを分解してみると、どうやら創作意欲みたいなものであるようだった。これは「祝福」のようで「呪い」であり、「呪い」のようで「祝福」であると、とある友人は言うだろうなと思った。おそらく、最近よく考えていた「満足感の正体」について、言い換えると、「慢性的な苦しみとどのように付き合っていくか」と、今日感じたムズムズには、どこか近しいものがあったのだろう。これから色々と掘り起こされる発見がありそうで、疲労の中から微かに楽しみを感じた。