03.17(月)
・ほんとにサッカーは見ていておもしろい。試合とは「どのようにルールを解釈するか」という行為の連続である。ルールのライン上で駆け引きをしていく余地が残されているところが素晴らしい。オフサイドラインはまさにそうであるし、ファールが取られる印象の変化もそうだ。
・自分はルールに付随する思考停止感が、ずっと好きではなかった。だが、ルール全体をウザいと思うより、サッカーのように駆け引きをしてラインを探求するのは、おもしろいかもしれない。社会を主審と見立てて、笛を吹かれたら、次はギリギリを狙うみたいな。日頃から、二元論を超えたあわいを探求したいと思っている。それはまさに、サッカーのオフサイドラインのようだ。だからこそ、この駆け引きという捉え方をおもしろく感じるんだろう。あわいには静けさはあるが、駆け引きする余地も残されていて、そこを楽しむ遊び要素がある。遊びがないと、余裕がなくなるからさ。
・スペインで暮らしてみて、自分はヨーロッパというものを何も知らないんだと知った。一生懸命暮らしていたが、何も知ることはできなかった。そういう無知を知ったのだが、同時にスタートラインにようやく立てたとも思った。
・浮気の現場に遭遇したとき、その場にあったバリカンで女性の髪を縦方向(モヒカンの逆)に刈ったという話を聞いた。「抵抗はされなかったんですか?」と聞くと、人は驚くと固まってしまうので、わりと簡単に実行できたとのこと。その人の内部は激しい怒りではなく、淡々と「よし刈ろう」と思えたらしい。ものすごい話を聞いたし、その感情を聞けたのはおもしろかった。「女性側だけやったんですか?」と聞くと、「ああ、男性側も当然やりましたよ」とその人はさらりと答えた。とても穏やかな人であったので、こういう話を聞くと、人の性格とは「温厚」「気が強い」など、いくつかの言葉で片付けてしまうのは、すごく乏しい行為だと思った。複雑だからこそ悩むのだが、だからこそ思いがけない深みがあっておもしろいのだ。
03.18(火)
・寝起きで絶望する毎日。なぜこんなに起きるのがしんどいのだ。
・期待の取り扱い方が難しい。期待しすぎて結果が伴わなかったとき、その落差でショックを受けることが多い。では、何事にも期待しないようにするというのは、根本的な解決になるのだろうか。ならない気がする。
・たい焼きを注文する。待つ間に、店にいた猫を撫でる。動きがゆっくりとしていて、老猫なのかもしれない。お尻あたりを撫でると、ぐぐぐっとお尻を上に伸ばしてきて、「そこがいいんですね」と撫でてあげる。そこをやめると、すーっと下がっていくので、また同じ部分を撫でてあげると、じわーっとお尻を伸ばしていくのがおもしろい。ほんとかわいい生き物だ。
03.19(水)
・雪の日はすーんとした寒さがある。その寒さは、意外と悪くない心地であった。
・ニュアンスが難しいのだけれど、「傷付いたかわいそうな自分」みたいな書き方をする文章はうんざりしてしまう。それは自身との対話を放棄して、「私は悪くなくて悪いのは相手だ」という、二元的な見方で終わるところかもしれない。「どちらが悪か」とは悪問であると思うし、そういう見方では、世界はどんどん息苦しくなるだけだろう。
・親戚の叔父ちゃんだから教えられることってあるなぁ。
・『回復、治るというのは、揺れることなき定まった状態になることではない気がする。もっと、動いていること、変わっていくことの途中にあるように感じる。なぜなら生きていることとはそういうことだから。わたしたちはいつだって必ず「生の途中にある」。だから回復、治るとは、「生の途上にあり続けること」なんじゃないだろうか。(庭に埋めたものは掘り起こさなければならない / 齋藤美衣)』自分にとって書くこと、そして撮ること、ついでに言えば、読むこと、対話することは、自己治療的な営みであると思ってきた。同時にそれらが、単なる「治療」に留まらないと思っているのは、それらに付随するプロセスが、自身の生きている螺旋を形作るからである。自分がよく口にしている、「螺旋」というモチーフは、生きる途上であることを表していたかったのかもしれないと気付いた。それはまさに、この本にあるように「生の途上にあり続けること」と近しいように受け取った。
03.20(木)
・「今何をしてみたいですか?」と聞かれたことを再度考えてみる。さらっとした問いかけだったけど、良い問いだった。なんだろう。なんでもできるのに、なんでもできないように思えてくる。
・よく田舎の市役所や工場の人が着ているような白っぽい作業着って、日本だと着こなすの難しそうだけど、海外という環境であれば、いい感じに見えるだろうか。たとえば、「ミリタリー(軍服?)ってオリーブ色のジャケットやパンツでしょう。あまり興味ないなぁ」と思っていた。だが、世界各地の軍の中には色々な職種があって、シェフや看護師などが使用してた制服を普段着の古着として扱う場合もあるわけで、色んなものを見ていくと自分が好きなものもあったりした。そんな感じで市役所ジャケットが、ミリタリーみたいな扱いを受ける未来はあったりするんだろうかという妄想。
・田舎の無人駅で2人で話していると、自分たち2人を交互に指差しながら、「芸能人ですよね?芸能人ですよね?それかAppleの人?」と、ピンクのダウンを着たおばさんに早口でいきなり話し掛けられた。芸能人でもAppleの人でもないので、「違いますけど」と答えるも、「絶対そうだ。え、芸能人ですよね?それかAppleの人」と言われてしまう。Appleの人ってなんだよ。Apple Storeで働く人ってことなのだろうか。Appleの広告に出ている芸能人ってことなのか。こちらは色々と話している最中であったから、背中を向けて無視することにした。その人は連れのおじさんに「絶対芸能人だよ」としばらく言いながら、少しすると車に乗って去っていった。そのときは、マジで意味わからんと思った。お互いに防寒優先の格好をしていて、卑下するわけでもなく、芸能人要素は皆無であった。だから、自分には見えない何かを信じきっている人だと頭で処理をしていた。だけど、後から思ったのは、あの人は本気で自分たちを芸能人だと勘違いしていたのかもしれない。たとえば、芸能人が出先で周囲にバレたくない場合、「◯◯さんですよね?」と言われても、「違います」と言うのではないか。だとすると、自分たちの言動は芸能人そのものであり、話し掛けた方は「いや絶対そうだよ」という反応になるのだろう。図らずも、芸能人の感覚を味わってしまった。なんなんだよとか思っていたが、芸能人にしてくれてありがとよ。
03.21(金)
・生活リズムを整えたいので、アラームを掛けてみると、珍しくそのまま起きられた。数時間前に少し目が覚めていて、半分二度寝のような感じだったから、起きられたのかもしれない。最近は目覚めがこの世の終わりぐらい悪くて、アラームを掛けて目が覚めても、二度寝しないと起きられない。そうなると、二度寝欲を満たしてしまえば良くて、だから今日は起きられたのだろうか。
・日本の環境を考えると、「ルール」というか「マナー」という概念が相互監視になっていて、息苦しさになっているんじゃないか。
・とあるポッドキャストで、スペインでの旅の経験を話す人の話を聞いて、それはスペインを理想的に見過ぎてやしないかと思った。その人がそう思いたいからそう見えるんだろうと思った。でも、それがポイントだ。人はそう見たいから見るのだから、そこを修正させても仕方がない。「あなたは何を見ているのか?」を聞いていけば、建設的な対話になるのではないか。
03.22(土)
・暖房なしで過ごせるのが嬉しい。春って嬉しいものだ。
・なぜか浜松で少しの間暮らしている自分を想像した。地元に近い方ではなく、浜名湖あたりで。ずっと地元は嫌いだったが、近年ようやくそこで生まれた自分を受け入れられてきた。想像としてみると、意外と浜松あたりの雰囲気は嫌いじゃなくて、むしろ好きかもしれないと思った。確かに何もないけど、平和である。
・スーパーのドレッシングコーナーの充実度に、今だに感動してしまう。ドレッシング以外もそうだが、こんなに”何かにかけるもの”が充実している国はないんじゃないか。この感動を当たり前だと思わずに保存して留めておきたい。ごまたっぷりポン酢を買って豊かな気持ちになった。豆腐にかけてやる。
・「見せる」「伝える」みたいな考えは、やっぱり馴染まないんだよなぁ。まずは「作ってしまった」みたいな戸惑いありきだと思うから。だからこそ、その後のことは「編集」という見方なら楽しくできそう。素材は「見せる」「伝わる」から離れたところから作っておいて、できたものを編集するやり方は徐々にやってみたいと思えた。
03.23(日)
・書くことは、読んだ人に複雑性を保ったまま、何かを受け取ってもらえる手段になり得るのかもしれない。読む人が少ないかどうかは自分は関与しない。そこを教育するのは、誰かがやってくれたらいい。自分はただ書くし、読んで受け取ってくれた人の話を聞けることがあるのなら聞いてみたいというところだから。
・具体と抽象を行き来すること。経験だけを話すよりも、対象から離れて抽象的に話すことが伝わったりするし、自分も受け取りやすい。
・問題には向き合わなくてもいい。でもその前提で、実際に”勇気”を持って向き合ってみると、案外広がっていくものがあると思えた。