03.10(月)
・夢でもZINEを作ってた。レイアウトが理想的で、その出来にとても満足していた。実際、レイアウトに関して悩みに悩んでいるのだが、夢でこれだけストレートに表れるものなんだと、ある意味で感動した。
・日記を書くとき、自分はどういう風に思い出しているのだろうか。映像的にというよりは、頭の中にあった言葉を思い出している気がする。ただ、脳内に映像として言葉が浮かび上がってくるのではなくて、「こういうことを思った」と、現時点から過去を見つめて思ったことを、そのまま書き写している感覚に近い。視覚に頼る部分はとても多いとは思うのだが、文章を書く際はあまり映像を使わないのだろう。
・窓から夕焼けでオレンジ色に照らされた木々が見える。部屋は暖房で暖かく、本を読んでいる。なんて豊かだろうか。そこに時間を持ち込むと、自身が社会活動に参加してないように思えることが、その豊かさを壊そうとしてくる。ほんとにそうなのかとは思うが、たとえば何か打ち込むことがあった上でのこういった時間なら、心置きなく豊かに思えるのにという自分がいる。でも、心置きなく豊かな時間を享受できる瞬間なんてあるのだろうか。また違う抱えているものに悩殺されるんじゃないか。だとすると、今感じている豊かさは、決して万全な状態から劣っているわけではないんじゃないか。そうなると、今の自分は様々なものを抱えながら豊かに思う図太さのようなものを、静かに鍛錬しているのかもしれなかった。
・思ったけど、何かに対して全然違うと思ったとき、自身の中で二元化して、その反対にあるのにと思うことは多いのだけど、それは自身の発見を固定するもったいない思想であるかもしれなくて、むしろ全然違うものの目線を刺激として、自身が掴んでいたものを二元論から解放して見ていくことの方がおもしろそうだ。生理的な反応での拒否は仕方ないことであるからこそ、同時に再構築に引き込むようにしておきたい。
03.11(火)
・日常で決断が迫っている事柄へのストレスがあると、なぜか水が迫ってきたり、安全にトイレが使えなかったりする夢を見がちだ。そういうトラウマ的体験は経ていないにも関わらず、人の想像力は不思議なものだ。今日はダブルだった。街の下から水が迫ってきて高台に逃げるのだけど、なぜか高台でトイレを使いたくなるも、そのトイレは壁が剥がれていて、誰かに見られそうで安心できなかった。抱えている不安が「壊れたトイレ」として具現化するパターンなんだろう。わかりやすく自身の状態が出ているけど、やっぱり不思議でおもしろい。
・自分は人相手ではなく、物と向き合って、その先に人がいたりする距離感が好きなんだろう。
・個人事業主を続けてきて、今だに「返信をする」という行為に対して、「時間を盗られている」という認識が少なからずあった。だが、仕事や普段の生活を含めた、あらゆる「はたらくこと」は、むしろ「リアクションを返す」という営みによって構成されていると言えるのではないかと思った。だとすると、時間をコントロールした結果、盗られているという見方ではなくて、関係性を育む時間のプロセスだと思えば、それらを終わらせることへの期待を手放していけるのではないか。
・今日は誰かの活動を見て、「いいな、こうなりたいなぁ」と夢想する瞬間が多かった。自宅兼アトリエを作っている人を見て、そういう生活をしたいと思ったし、スペインで撮った写真を見返して、「ヨーロッパで生まれてみたかったなぁ」と全くの無意味なつぶやきを声に出したし、一切働かず太い実家の仕送りのみでパリで社交しまくったという薩摩治郎八の話を読んで、社交的でどこでも入り込めたら世界中どこでも楽しいのになぁと思ったりした。憧れは意味がないとは思わないが、「そうなったら自分は幸せだ」と思い込むと、「そうなっていないから自分は幸せではないのだ」と簡単に反転してしまうことには気をつけたい。
03.12(水)
・花粉症対策の作戦会議。アレグラがあまり効かない気がするので、無くなるタイミングで、アレルビと点鼻薬を試してみることにした。成分的にアレグラとアレルビは一緒なのかもしれない。ビタミンDサプリも飲んでいるし、目薬もあるし、いよいよ重課金だ。病院へ行った方が良いのかもしれないが、海外生活で病院に行かない習慣が付いてしまい、タイミングを逃した感がある。
・友達はお笑いが好きなのだが、2人でその話をしていると、その構造自体に可笑しみを覚える。自分は主にラジオで芸人のトークを聞いてきて、M-1もなるべく見てきたし、何度かライブを見に行ったこともある。ものすごく詳しいわけではないが、それらを統合して、なんとなく芸人周りの事情を把握している感覚がある。だけど、普段そういう話をする機会はないので、そのこと自体を忘れている。だけど、こうして同じぐらい事情をある程度網羅している人と話すと、マイナーな芸人の名前を出してもポンポン話が進むので、なんだか特定の業界の専門用語を話している気分になって楽しくなる。
・先週、採血した箇所が、青あざを通り越して緑色になっていて、人体がそんな色になるわけがないと怖くなる。調べると、青の次は緑になるらしく、一応治ってきているようだ。採血に向かない身体だ。
・仮固定のまま、進んでいきたいものだ。
03.13(木)
・ディープリサーチを使ってみたいが、今月はchatGPTの無課金月間なので、無制限ではないけど無課金で使えるPerplexityを開いて、色々と聞いていく。すごい機能ができたもんだ。入力された文字に対して、その続きにありそうな文字を返すという仕組みだった気がするが、このように人が言語世界を生きていて、その曖昧なニュアンスを繰り返して生きていることを、怖いぐらいに汲み取って炙り出していくこの作りには驚く。
・他者の物の見方を否定しても、話が終わってしまう。だが、その人がそう見たいという状態に目を向けてみると、「あなたはそう見ることで何を受け取ったのか?」と問いかけることから対話は始まるんだろう。一旦、事実として受け取って、その上でどう感じたのかを聞いていくみたいな感じだ。
・アーレントの「悪をなすことを避ける」という言葉は、やはり重要なことであると感じる。道徳が何かと定義したとしても、それらはすぐに変わってしまうこともある。だとすると、自分の中の自分と仲違いをせず、自身に聞くように対話することが、思考の根であり、自他と共にいられる道なんじゃないかと思う。
03.14(金)
・どんよりとした気分になる。状況が好転しないとき、自分の不甲斐なさが思い当たってしまい、それが重くのしかかってくる。だからといって、自己と仲違いするように自身を責めることは、さらに苦しい。今日は耐え難いなぁと思う。揺れ動く窓から差し込む光は、いたずらにこちらの干渉を受けずに動き続ける。本を読み、たくさん歩いてみる。本と歩行が傍にあって嬉しく思えた。
・大概の仕事は、「そこにいる」という役割だったりするんだろうな。
・時間を掛けて展示を見て回れた。すごくすごく良い時間であった。ああ今日は大変だったが、絶対しぶとく生きてやるし、楽しんで発見してやるからなと思った。元気になってきたね。
03.15(土)
・「コンポ」という言葉を久しぶりに口から発した。
・満足感とは何かって、ほんとにむずいよねって話。
・消費との良い付き合い方ができたらいいよな。たとえ節税であっても、高い車や食べ物ばかりなのは、垂金権造(幽遊白書)の実写版じゃんとなる。だが、重要なのは課金の有無ではなくて、どのような感度を持って生きるのかであるとは思っていたい。豊かさは自分で見出すことにしたのだ。消費との付き合いは自己治療ではなく、豊かさの保険であり、プラスの点になるぐらいに思うことにした。
03.16(日)
・寒くてあまり動く気になれず、もそもそとしたスピードで朝食を食べながら、「TAKRAM RADIO」の最新回を聞く。旅についての話だった。2人が穏やかな語り口で、旅を通して感じた気持ちを素直にシェアしていく様子を聞いていると、旅に対する自身の意識が緩やかと変化していくようだった。自分は「旅」という捉え方に違和感を覚えて、自身をその状態にあると規定しなくなってからしばらく経つ。直近のスペインや海外での暮らしは、様々な人たちに「旅ですね」と言われてきたが、「果たしてこれは旅なのだろうか」と自身に問い続けてきた。よくいる旅好きとは大体話が合わず、どうやら「旅」という言葉に対する意味合いは、随分と幅のあるものだと気付いたのだ。旅人たちの言葉の定義を否定したいのではなく、自身の違和感をひたすら探りたかった。ラジオではそういう旅好きのよくある話をしてたわけではなかったし、自身の問い方を続けながらも、あえて「旅」だと括って自身の軌跡を捉える行為には、たくさんの発見があるのかもしれないと思えたのだった。自分は旅というものがわからない。わからないからこそ、これからたくさんしていくような気がした。
・最近はオンライン英会話のやる気がひどいことになっていて、いつも通りテンションのゲージが0の状態で受けていたのだが、今日の講師が穏やかで心地よい距離感が接してくれたおかげか、久しぶりに少し元気にレッスンを楽しめた気がする。
・写真は開かれた空間であるというのは納得がいく。自分にとっての写真は、日々の苦痛の緩和としての自己治療的な側面があるのは確かだ。さらに、治療は発見を兼ねている。同時に、ただ撮ったものが水が流れていくように、自他問わずどこかに入り込み、変化していくプロセス全体を愛しているということもあるのだろう。その水が流れて滞留していく場所は、確かに開かれた空間と言えそうだ。