2025.02.24-03.02|雑記帳

02.24(月)

・「なにをして楽しく暮らそうか?」という視点の大事さよ。

・上手くできないときの居心地の悪さって、意外と味わっていないかもしれない。写真はどうだっただろうか。意外とすぐにできたし、感覚で進めるところがあった。失敗を繰り返して、ほんとにわずかな1つができるようになる繰り返しのプロセスであるんだろう。ここを楽しめたら豊かだろうな。

・孤独とは一時期すっかり仲良くなって、内包した存在になってしまっていたのだけど、ここにきてまた掴みどころがなくなっている気がする。

・出発点である基盤がどこにあるのかということが気になるのだ。

・スーパーやコンビニで売っている、すぐに食べられる飯が普通に美味いのが日本のすごいところだ。

・人と会うと楽しくても疲れてしまう。だが、それは人疲れではなく、人と対峙することで生まれた発見が滞留されている状態に対して、慢性的な疲れを覚えるということなのではないか。身体的な疲れはあるもので、その上に乗っかっているように思えるから、対象が人だと思い込んでいたような。だから、滞留を流してあげる、たとえば思ったことを書いていくようにすれば、その体験の満足感が後からやってくるように思う。満足感はすぐにやってくるものではなくて、滞留が流れていった後に遅れてやってくるものなのかもしれない。

02.25(火)

・なんだかんだ日常のことが予定通りに進んでいるときの方が良くやっている感あるのは、完璧主義の弊害だろうか。

・観光地にて、僧侶がお店を周って托鉢をお願いしていたのだが、なんだか威圧的な物言いで、見事に全員に断られていて、お店を出たあとに「ちくしょうが!」と悪態をついていた。ああいう口調じゃできるものも無理でしょうと思うし、煩悩が溢れていてそれでいいのかと思った。いや、未熟者だからこそ修行をしているのか。

・ハンナ・アーレントの継承的なことを自分はしたいのかもしれない。人々が自ら思考できるような豊かな刺激を提示する範囲に留まる活動をしていく。それ以上でも以下でもない領域を担当していたいのだと思った。

・会う人会う人に、「素直ですよね」と言われる。俺はそんなに素直なのか。

・自分は結構考えることに関して、諦めたくないと意外と思っている。簡単な帰結に着地してわかった気になりたくない。だが、その飛行に付いてくる人は少ない。自身だって燃料が持たないこともある。それでも飛び続けようとしたいのだ。

02.26(水)

・語り口が多様で良いというのは確かにそうだ。真剣な話は真剣なトーンだけである必要はなく、ニコニコと真剣な話をする語りもあれば、真剣な顔で楽しい話をする語りもある。そうすることで、受け取れることはあるだろう。

・嫌いではないけど、自分にとってちょっと都合の悪いことを言ってくる人や本は、実は貴重かもしれない。このちょっとだけというのがポイントだ。課題として避けたい部分に向き合って見るか仕方ないみたいな刺激をくれる感じがあるから。

・「書く」の重要性は散々語ってきたけど、書いたものを自分で「読む」という行為も同時に存在している。「書く」と「読む」はセットである。「読む」とは本を読むだけではなくて、自身で書いたものを「読む」ことも含まれていたのだった。

・非言語的な表現や活動であっても、それらの周縁には文章と語りが付随される。だからこそ、それらを無理に分ける必要性はないと思う。道端に作品が落ちていたら、それがアートだと思える人はほとんどいないだろう。だが、自分は道に佇んでいるゴミ箱を、美術館の作品と同じ延長線上で見ているんだと思った。

02.27(木)

・計画が問題なのではなく、今この瞬間にそれが成されるか確実に知りたいと思ったときに、不安が生まれる。時間は所有できないし、確実に知ることなどないのだ。

・考える暇がない、じゃなくて、考えたことをかき消そうとする自分がいるってことなんじゃないのかなあと思うことがあった。

・「ハリー・ポッター」シリーズで、最初は順当にハーマイオニーが好きだったけど、段々ペチュニア・ダーズリーが好きになったという話を聞いて、渋すぎるチョイスにテンションが上がった。確かに最初は嫌な人物だったけど、根底には複雑な家族への気持ちがあったと後々にわかるんだよな。目の付け所が良すぎた。

・湯船に浸かりながら、今この瞬間を見つめるということをやってみた。まずは未来を考えてしまい、一抹の不安を覚えた。次は過去の出来事を再解釈する時間に入りそうになった。これはなかなか今を見つめようとはしない。目の前を観察してみる。今といえば、湯に流れてくる自身の髪の毛、湯気で薄く隠れてこぼれてくる天井のライトの光、湯が冷めてくると追い焚きをしてくれる浴槽の動きを感じ取り、温度によって足を出したり湯に沈めたりする自身の身体ぐらいしかない。そういうことしか観察し得ない。目の前の世界は、そうした大したことのない要素で構成されていることを実感する。それがなんだと、未来と過去に勤しみたくなるライフハッカーたちの気持ちがわかる。自分も今を見つめたからといってなんなのだと思う。風呂に入るまでも、出た後も、人生にはやることが多いのだ。だが、身の回りの世界が大したことのない要素であることに、微かな豊かさを感じた。大したことのないというのは、決して見くびった言い方なのではなく、いつだってそこにあるという出発点を発見できたということであったのだ。

・光る部分が見えるときがある。暗闇の静けさを感じるときがある。それは写真を撮る自分だからこそ見えるものなのかもしれないと思った。

02.28(金)

・他者の見方をおもしろがるんじゃなくて、自分がなぜその意見に違和感を覚えたのか探るのが方向性として良さそうだ。基盤を自己にして問い始めることだ。その後にそういう目線があるのかという感嘆がある。

・フィルムの良さは、撮ったものをすぐに見れないことで、現像して仕上がったときに、そのものとの出会い直しができるところにある。発見の喜びを再度味わえる。

・フィルムは撮ったものをすぐに見れない、寄って撮れないレンズ、瞬間を逃すマニュアルなど、それらを当然として、ではどうやって撮っていくかを試行錯誤し続けたから、何も障害はないと思えるぐらいになっていた。でも、早く見たいのはずっと思っているし、できたらそうがいいけど、そのままならなさを内包して付き合っていく道を見つけていたのかもな。

・日本に帰ってきての初ラーメン。美味しいけどあっという間だ。こうしてラーメンの刺激的な旨みは忘れられていく。フォーボーの美味しさをまだ覚えていられるのは、刺激的な旨さではなく、しみじみと感じるものであったからだろうか。

・まだまだコンビニが新鮮に思えてよいかんじ。

03.01(土)

・帰国して1ヶ月経ってしまった。予測不能な未来を心配していると、永遠に安心などできないように思われてくる。むしろ過去は起こってしまったこととして、見つめることはできるわけで、過去の方がよっぽど予測ができる。予測というのかわからんが。過去を見つめて対話するのが、個人の責任なのかもしれない。

・数年振りの花粉症だ。しっかりと発症していて、ほんとに日本はえげつない環境だと思う。ビタミン効いてないんだけど、どう対策すれば良いのだ。

・定義を決めてから話さなくていいと思う。だって、どこかに向かう対話ほど、つまらなく固くなっていく。確かにすれ違いはあったとしても、そこから自由に話して、段々ポイントが掴めて合意形成されていくものだ。

・中古市場はすごい。だが、みんな探すのに疲れている。だから、セレクトで信頼してもらえるような販売ができるようになれば、商売になるんだろうか。

03.02(日)

・先月を振り返ってみると、人と会ったり、行きたかった場所に行ったりしていて、わりと楽しい時間を過ごしている。

・「あまり共感できない」という言葉を、分断のためではなく、そう思ったときは素直に言うようにしていて、良い変化だと思った。

・「どんなときに写真を撮るのか?」「目の前の写真のどこに良いと思っているのか?」という問いは、シンプルだけど、味わい深く、どこまでも深くぐるぐると巡っていくようで、とてもよいかんじだ。