02.10(月)
・自分の気持ちを観察するのもそうだが、「解析する」って感覚の方に近そうだ。
・確信と独断の違いを考えてみる。受け流すということ。防御姿勢を取ると、大きく反応したくなる。防御姿勢がダメなのではなくて、もっとオープンな防御はできないだろうか。穏やかな防御がしてみると、立ち入らせないところは線を引きながらも、静かに佇むこともできるのではないか。
・ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がたまたま目に入ってきて、なんだかすごく腑に落ちてしまった。愚者か賢者かはどうでもいいが、自分はあまり「経験」というものを絶対視していなかった。年長者と話すと、自身の過去の色とりどりの経験を語り出す様子を見たりするが、なんだか自分でそう鼓舞しないといけないようで、痛々しく思っていた。経験知が役に立つ場合もあるが、自分はいつだって目の前の出来事に戸惑い、捉え直す態度でいたいと思う。ついでに、その言葉に学ぶなら、歴史という人々の積み重ねを見つめてみることをしてみたいとも思った。
・生きるって振り幅があるものだね。
02.11(火)
・制限は確かにある。だが、その影響で普段なかなか手をつけられないことをやれたりする。そのランダム性を楽しんでみるか。制限が生まれたとき、自分は何に手をつけるのか。優先順位を考えてやりたいのもあるが、ある意味でそのように「時間をハックする」という概念が通じない世界に身を置いてみることに繋がる。
・とある作品(文章)を見て、その内容自体がおもしろいのもあるが、それらの構造(文体)そのものがおもしろいみたいなことがある。だが、そこに気付く人は少ないし、そこを話し合える人がいたときは、すごく合うなぁと思う。
・共感ではなく、乗っかって重ねるようなやり取りをしていたいと思う。たとえ、共通認識ができたと思っても、そこに至るまでの螺旋は各自で違っている。だからこそ、その背景を聞いてみたいと自分は思うのだろう。
02.12(水)
・理想とは完璧主義のことなのだろうか。もしそうならやめたいし、理想は描きつつ、それは決して叶わないことを受け入れておきながらも、小さなことを喜べるようになるようでありたいと思った。
・そうか、人にはそもそもの「浅ましさ」があるのかもしれない。代々呪いを受け継いでいく構造には、いっそスパッと断ち切ってもいいんじゃないかと思っていたが、「呪い」そのものを捉え直してみると、そういったどうしようもなさに対して、むしろおもしろく思える瞬間は確かにある気がした。そして、そうやっておもしろがることは救いにもなるのだろうな。
・おそらく、自分はその構造の「浅ましさ」に対して、「許せない」と長らく思ってきたのだが、そこにあったのは他者に対する目線というよりは、自身に対する「浅ましさ」を受け止め切れなかったことにあったのかもしれない。なんというか、自戒とかいうよりも、そういう「許せない」自分と、和解をしていくような感覚が今の自分にはあるし、大変だけども、そういうこともちょっと楽しかったりもする。
02.13(木)
・なぜか企業の面接を受けており、最終面接で「これドーナツですどうぞどうぞ〜」と言われて、面接官とドーナツを食べながら談笑し、無事にプリンターのメーカーらしき会社に転職が決まった夢を見た。自分の脳はどういう状態なんだ。ちなみに、年収780万スタートだったけど、これが高いのか低いのかもわからない。全てが突拍子もなさすぎて、どこから創り出した設定や数字なんだろう。脳はすごい。
・埼玉の奥地に滞在していると、都内へ行くのに時間とお金が掛かる。ただ、帰国して会いたい人や行きたかった場所は無数にある。だからこそ、予定を詰め込んで、効率よく都内を楽しんで帰ることをしていた。でも、時間に追われて行動するのは、どうなんだろうと疑問が湧いたし、実際に予定を決める段階でめちゃくちゃ疲れた。なので、行きたい場所を1~2つ決めておいて、それ以外はその場の気分で決めることにした。時間をコントロールすることを少しずつ手放していく訓練って感じがしている。
・嫌だと思うことは、ほんとに耐え難い。これは自身の疾患的側面なのだろうか。
・豚バラ大根を作ろうとすると、出汁の調味料がないことに気付き、味噌とかつおぶしを試しに入れてみると、めっちゃ美味しくなった。あるものでブリコラージュしている感じも良かった。
02.14(金)
・これだけ文章というもの全体が好きなのだから、文芸の分野に関わり続けたいと思った。「文芸」という言い方がなんだか良いと思った。フィルムだって好きなのだから、それで生きていきたいと思っているわけだし。文芸とフィルム。
・自分にとっての書くことは、自己治療的な行為なんだよな。だからこそ、大事であるし、単に好きとかだけではなく、治療として必要としている側面は確かにあるのだと思う。
・展示を見ていると、作品を見ながら「何を感じているか?」を率直に話し合っている男女がいて、彼らの関係性が何であろうと、すごく良い2人だなと思った。
・積読していた「人間の大地(サン=テグジュペリ)」を読んだ。絶望的なとき、助けどころか泥を投げられた出来事に対して、確かに作者は喜び笑ったんだろうと思った。「浅ましさ」って受け入れる苦行的なものだと思っていたけど、実は「可笑しみ」を見つける発見のプロセスなのかもしれない。
02.15(土)
・芸人が好きなのは、全く想定外の着地になるような話をすることが、「創造する」行為であるように思えて、単純に「作品」としての美しさを覚えるからだろう。あとは、事務所に入っていたとしても、生存戦略を模索し続けること自体が、個人事業主として同業者にしか思えないのもある。
・自分への注目が集まるのが嫌なのは、相手の期待を満たすことに駆られたくないと思うからだろうか。
・家族や関係性における連鎖は、地獄にも思えるが、そうやって補い合って人は生きていると思えば、至極当然であるのかもしれないな。
・俺は誠実であるのかもしれなかった。そうか、そうだったのか。
・つまずくということは、馴染みがないものに慣れていくプロセスであることだ。
・「しぶとい喜び」というものがある。
02.16(日)
・自分は言い出して(旗揚げして)、提案(こうするのはどう?)とか、背中を押す(それやってみない?)のが大得意なんじゃないか。だけど、予定を決めたり、計画したりは好きじゃないかも。だからディレクター的ではあるけれど、細かく見ると違くて、旗揚げ見守り役みたいな。そのために小さい場所を作り続けたいと思った。
・書かないでおくことの信頼もあるんだろうと思えた。
・やることを決めて、それ以外を手放してみると、心が軽くなった。たくさんのことは同時にできないもの。
・イルミネーションされた木の横を通ると、「ブロッコリー畑みたい」と誰かが言っていた。確かにブロッコリーみたいな木ではあったが、「畑」ってなんだ。「ブロッコリーみたい」じゃなくて「ブロッコリー”畑”みたい」なのか。あの木々を「畑」として扱うことが、なんだか可笑しくて、楽しい気分になった。