01.27(月)
・寝付きが良くなってきた。しばらく隣の教会が早朝に鳴らす鐘の音を聞いていない。
・肯定か否定かではなく、淡いに漂う感じは、付き合い方として良さそうだ。
・「いずれくる死にそなえない(名郷直樹)」を読んでいて気付いたのだが、どんな人間も必ず死ぬ能力を持っているって、改めてすごいことだと思った。これだけ個体差があるのに、絶対に全員死んでいくわけで。もし天才がいるのだとしたら、死なない能力を持つ人だけだろうと思う。
・そうであるけど、そうではないと思うことの大事さ。
01.28(火)
・iPhoneの通常のアラーム音で起きると気分が悪いけど、睡眠モードのアラーム音だとスパッと起きられた。
・お気に入りのスペインのフィルム「1 Hundred Film」が、ISO400版の「4 Hundred」を新しく発売していて嬉しい。早く使ってみたい。
・旧正月の年越し。0時近くになると、各所から緑の花火が上がり、日を跨いだ瞬間を超えても、ずっと花火は続いていた。これは間違いなく年越しだ。新年って感じだ。窓を開けていると、火薬の匂いが入ってきたが、そのままにしておいた。ずっと見ていたいと思った。
01.29(水)
・街の正月感がすごい。ほんとに旧正月が本番の文化なんだなぁと実感した。
・「フォーボー(牛肉のフォー)が美味しいよ」と言われて、「まあ味は予想できるけどなぁ」と半信半疑で食べてみると、スープの味わいが深すぎて、思わず感嘆してしまった。ほんとに久しぶりに食べ物で感動した。めちゃくちゃ美味しかった。
・断片的な言葉だからこそ、受け取れるものがあったりする。途中で終わっていたり、詳細が省かれていたりすることで、受け取る余地は広がるというか。だからこそ、こうして雑記を書くのだろうし、日記的な文章を読むのが好きだ。
01.30(木)
・自分は無意識に、気合いと根性の思考をインストールしているんだろうか。人が楽に生きられたら、それで良い気がする。
・散歩はたまにするからいいんだろうな。街中をただ歩いてみて、今日はすごく豊かな気持ちになった。
・なんでキリスト教は、「聖書」という「小説」の世界観を現実に強いてくるのだろう。そんなの有りにしてくるなら、こっちはハリー・ポッターの世界観で生きていきたいけどな。魔法も使えない世界観なんて信じられない。好きな小説ぐらい、自分で決めるわい。
・またフォーボーを食べる。牛肉の料理なのに、スープは豚骨っぽい味がするのはどうしてだろう。豚骨だからといって、しょっぱさはあまり感じず、塩気が物足りなくなる手前のラインで保たれているようで、そこにはこんなに奥深い味のゾーンがあったのだと知る。スパイス感が強くないのも良い。美味しすぎる。
01.31(金)
・ハンナ・アーレントの「責任と判断」をたっぷり読む。自分の根を見出すことは、自身を安定させることか。どうでもいいが、彼女の名前は「アーレント」と「アレント」という2種類の日本語訳があって、なんだか「アーレント」の方がしっくりくる。そうなると、彼女が亡命して帰化したアメリカの英語の発音風に、「ハンナ」ではなく、「へァンナ・アーレント」とかになるのだろうか。その疑問が頭にある状態で読書を続けていく。
・他者に向けることなんて、そもそもできるのだろうか。どこまでも、他者に向けたい”自分”がいるじゃないかと思う。「向けたい」というのは、誰が言ってるんだろう。
・後から読もうは、ずっと読まないんだよなぁ。本は積読しても読む機会がやってきたりするけど、「おっ、なんか良い感じだから後から読もう」と思ったWebサイトや記事などは、永遠に読まない気がする。
02.01(土)
・日本に着いてまず思ったことは、「税関が厳しい」ということだった。申告するものがなくても、どこの国の人であっても、全員スマホか紙で申請書を提出する決まりとなっていた。パンデミック以前の状態しか知らなかったから、「あれ、こんなに厳しかったっけ?」と思った。恐る恐るゲートをくぐると、係員に会釈をされて、特にチェックは受けなかった。会釈してくれるんだ。そういえば、入国と出国の審査官たちは、グローバル基準で全員びっくりするぐらいの無愛想さを保っているけど、あれは絶対に「無愛想にしなさい」というマニュアルがあると思っている。じゃないと、あんなに友達ができなさそうな人たちが、世界中にたくさんいるわけがないもの。きっとみんな我慢して、不機嫌なフリをしている職業なのだ。いつか審査官と知り合ったら聞いてみたい。だからこそ、税関ではあるけど会釈されたことに驚いた。直近で行った国の税関は、どこも申請なしでスルーできたので、こんなにしっかり確認する国はあんまりないんじゃないだろうか。
・交番で手続きを済ませると、警官がまさかのベトナム料理好きで、フォーボーの美味しさについて語り合う。恵比寿に美味しいバインミーのお店があることを教えてもらった。
・早朝の光が差し込んでくる電車に、スーツケースを抱えてぽつりと座っていると、とても静かだった。扉が開いて入ってくる匂いが、日本っぽい清潔感を感じた。
・駅へ迎えに来てくれた友人に、会ったらいきなりハグしてやろうなどと考えていると、イヤホンケースがないことに気付き、駅に戻って確認するも既になかった。気分が萎えてしまい、そのまま「あっどうも〜」と1週間振りぐらいのテンションで声を掛けてしまった。途中で、アウターの内ポケットにイヤホンケースがひょっこり入っていることに気が付いた。自分はこういうミスあんまりしないのになとその場では思ったが、直近でクレカを無くしたり、時間を勘違いしたり、振り返るとわりとあった。自分の中で何かが変わってきているのかもしれない。
・風呂に浸かれること、追い焚き機能があることに、こんなにも豊かさを感じるとは思わなかった。え、もしかして、みんなもこんなに良いことを密かに味わっていたのかと想像すると、ずるいぞと思った。
02.02(日)
・帰国してあらゆることに発見があって、ちょっとおもしろすぎる。感受性のボーナスステージに突入している感がある。きっとそれは一時的なもので、すぐに慣れてしまうのだろうけど、今はただ素直に発見の喜びを味わってやろうと思っている。今日はスーパーの値段表記が円であることに感動した。品揃えも良い。すごい国だ。
・何かをする体験は、同時に何かをしなかった体験と同じぐらい、重要な気付きが詰まっているんじゃないか。
・向き合うものと、自身が取って代わってしまうことは望んでないはずなのに、そうでありたいと望むのは、不思議な矛盾で自分でもおもしろなぁと思う。
・書くときには、一人称を「自分」としておきたい。どうしても、感情を乗せたいときは「俺」を使うのもいいけど。話すときは、基本的に「俺」で、敬語だと「僕」と言ったりするが、どうしても「僕」と書くことに耐えられない。どうして「自分」が良いのか。「自分」と書くことで、翻訳者としての「自分」が出てきて、剥き出しの「自分」の庇護者のように捉えられるからではないか。そうすることで、剥き出しの「自分」が思ったことを、翻訳者が観察するように捉えて、その結果として文章が書かれるような形式でありたいのと思った。