2025.01.13-01.19|雑記帳

01.13(月)

・遊びを忘れている、休み方がわからないことに関して。大事なのは「一旦離れたい」という気持ちを発散させることで、何かしらの後悔はあるのかもしれないが、「よし戻ろう」と思えることにあるのかもしれない。

・洋楽ロックをずっと聴いてきた。ハマった曲が出来るとすると、毎日のように聴く傾向にあるから、その時期を過ぎて、久しぶりにその曲を聴くと、よく聴いていた当時の情景が思い出される。自分の場合、音楽は記憶と結び付きやすいのだけど、自分だけなのだろうか。

・提案されたことに対して、すごくそうしたいのだけど、自分の中のとある部分がどうしても頑なに「できない」と言っているときがあって、通訳者のような自分が「ごめんね、できないそうです」と困惑していることがある。

01.14(火)

・古着屋事情を聞く。ホーチミンというか、ベトナムの古着市場はやはり小さいようだ。この前行ったタイだと、バンコクの古着市場は大きいようで、確かに街中でも古着っぽいファッションを楽しんでいる人が多かった印象がある。ベトナムはバイク社会だから、人々は実用性重視なところがあるのだろうか。日本の古着市場は特に大きくなってきているようで、話を聞いたオーナーは東京と大阪に新店舗を開く予定らしい。書類仕事って大変だよねという話をして、ほんとにこのめんどくささをこなしている人間たちは偉すぎると思った。

・フィルムの世界でもそうだが、中古しか存在しなかったり、作られた時代の良さが詰まっていたりすると、自然と中古を選ぶようになる。新品にそれがないとは思わないが、「誰かが使って手放した結果そこにある」ということは、自身で価値を見出す、発見のプロセスである。それに人々の流れに入っていくことであり、まさに社会と友好関係を築く一歩になるのではないかと納得感もあった。中古市場というと話はデカいが、そういうやり取りはしていきたい気持ちは高まった。

・ベトナムに来て数週間、初めて雨が降った。バイクに乗る人はみんな同じようなカッパを被って、ミラーに上手くカッパを引っ掛けて走っていた。器用だなぁ。

01.15(水)

・「誰かのため」という動機はあまり効果がないのだが、身近な人たちの誰かが見てくれたりするだけで、全然やっていけるかもしれない。むしろ、その「身近な人たちに向けてやる」という見方はどうだろうか。特定のコアな人に向けることで、結果的に広がったり、伝わったりしやすくなる可能性はある。たとえば、「大衆」と括ると顔が見えなくて嫌だが、では身近な人に「この辺よくわからなかったんだけど」と言われたとすると、「これはこういうことだったんだよ」と説明をすることは、全く苦ではなかった。そうか、大衆に向けるから嫌なわけで、社会ってよりも、ほんとに大好きなこの人が見るとすると、こうした方がいいかってやればいいかもしれん。

・バイクタクシーを呼ぶと、近場にいるのに全く動こうとしていなくて、連絡をすると、「タイヤが壊れたんだけど、数分でそちらに向かうよ」と言われた。「そんなわけなくない?」と数分待っていると、「もう少しで行くから」と追い連絡が来る。だけど、たとえ来たとしても、タイヤがさっきまで壊れていた状態のバイクに乗るのは怖いだろと思い直し、キャンセルした。パンクだとしてもタイヤのスペアなんてあるわけないし、なんだったんだろうと謎が残る。

・ベトナムの椅子は低い。

01.16(木)

・行ってみたスタバの店舗名が「Golden Mansion」で、富豪感がすごい。日本のスタバは席の配置が落ち着かない店舗が多くて、絶対に使わないと思っていた。だけど、スペインや各国に行ったとき、都市の中心部には大体スタバがあり、WiFiと電源があって、席の配置も良い店舗が多かったから、スタバほど便利で助かるカフェはなかったし、好きになってきた。でも帰国したら行かないだろうなぁ。

・所属しているコミュニティやグループにおいて、所属している人がその集まり自体を過剰に持ち上げている構造があるとすると、なんだか居心地の悪さを感じることが多かった。どうしてだろうと思うと、集まりの中にいるのは、あくまで顔の見える「個人」が最初であって、その集まり自体は「活用する」場所であり、それらが逆転して「個人」が見えなくなるように思えるから、そう思ってしまうのかもしれない。本来は自然に人と人が出会って、何かを結成したりするものを、現代ではわざわざコミュニティやグループと謳って集まろうとしているわけで、集まりが最初ではない。逆に言えば、だからこそ、集まりを活用して、目の前の「個人」と出会うことに、すごく良さがあるのかもしれない。

・日本ではキャベツが1玉700円になっていると聞いて、俺は帰っても日本に馴染めるだろうかと心配をしている。キャベツを適当に切って、塩昆布とごま油を掛けると至高のおつまみになるのに。

01.17(金)

・フィリピン出身で、介護福祉士的な仕事をするために近々日本へ移り住むという人と話した。専門的なことはあまりわからなかったが、イギリスやフィンランドの企業とも面接をしたが、日本の企業が先に採用と言ってきたので決めたらしく、それで住む国が決まっちゃうのはなんだか考え深い。率直にイギリスやフィンランドの方が良さそうと思ってしまったが、そういう気持ちが膨らんで実際に言ったりすると、いわゆる「大きなお世話」になるんだろうな。彼女はこれからどんな生活を送っていくんだろう。

・部屋の掃除をしに来たハウスキーパーが持ってきたワゴンに、掃除道具らしき物がたくさん詰まっていて、なんだか手術中の医者みたいだと思った。手術中の医者はイメージでしかない。

・最近思うのは、自分の心の中には「ジャイアン」がいるということだ。ジャイアンとは、自分のリサイタルを開くために人を殴るような暴行犯である。リサイタルってなんだよ、ヒトカラも満足に行けねぇのかよ。そんな奴が自分の中にいるのは認めたくないのだが、そのぐらい頑固でやりたいことにしか納得感を持てないとき、むしろそのジャイアニズムを認めてしまうことで、外部との通訳者となる自分も出てきて、一緒に相談するということがしやすくなった気がする。「こう言われているけどジャイアンどう?」「俺はできねぇ」「僕はやってもいいかなぁと思うんですが、どうしてもジャイアンがダメだと言ってまして」みたいな。

01.18(土)

・生き物は放っておくとカオスになる。だからそこに、ほんの少しの静けさを足すと豊かになる。そういった秩序が過剰になっていくと、ルールとなるわけだ。

・過剰さはおもしろさに繋がらないんじゃないかと思う。興味深いというニュアンスのおもしろいも含まれるが、笑えるという意味でもそうだと思う。たとえば、古着屋にあったサッカーユニフォームに、「伊藤くんより頭が悪い人」と印字されたものがあったがそれは過剰であまり笑えない。だけど、「メガネ部」とだけ印字されたものは過剰ではなく「なんだよそれ」とちょうど笑える気がする。この前のM-1で、前年度優勝の令和ロマンの1本目のつかみの一言目とかもそうだと思う。肩を尖らせたイカつい高級スーツを着て、前年度優勝者が「終わらせよう」は、過剰であまり笑えなかった気がする。だけど、2年連続トップバッターという会場中が「どうなるの?」とどよめいている中での「終わらせよう」は、その過剰さが和らいで「いや怖すぎるだろ」で笑えたんじゃないか。過剰さと秩序という見方でいると、勝手に色々当てはめられて楽しい。

・多くのことを抱えたまま、どう過ごすかが最近の悩みだ。ざっくり言うと、やることを書き出して、緊急と重要で4つに分けて管理しているのだが、荷物をずっと背負っているようで苦しい。だが、書き出すことで荷物を下ろせるという話を聞いて、自分も考えてみた。書き出すことで、あとは実際にやるときにまた背負えばいいというのは確かだ。だが、いくら「よし手放した」と思っても、重いものがあること自体に怖さが生じる。でも、抱えているものを全て下ろしたいと思っても下ろせないのが人生だとジャイアンなりに学んでいる。なので、書いて手放して、やるときに背負い直すということに慣れておいた方が、確かに生きのびやすいとジャイアン思うわけ。きっと何か無意識に固定している見方があって、それを見出して、その重さに対する怖さを克服ではなく、付き合い方として見出したいと思う。

01.19(日)

・誰しも初めて何かをやるときは怖いんだよな。そう思っていても、その怖さを避けたいと思うから困る。ほんとにどうしたものだろうか。緊張するから真剣にやるのはあると思うけど。

・なんという複雑性なのだろう。余裕がないのならそうしないでくれよと思ってしまうが、それはそっくりそのまま身近な人や自分を傷付ける思考になりそうだ。心の底からの信頼はできないというか、しないでおくのだけど、それでも心を離しながらも話を聞くことは自分はできるのだな。共感しなくても話は聞けるものだ。ほんとにそれが生き残る道なんだろう。

・自分たちが「雑談」をしてるのが可笑しい。自分たちには笑えるぐらい、変なことなのだ。それは確かに救いであったなと思えた。

・できないことが多すぎるとき、どこに満足感を置くのか考えてみたくなる。社会がある程度の豊かさを享受できるように設計し得たとしても、満足感のポイントは、個人が背負うことになると思ってしまうなぁ。