01.01(水)
・誰かが転んで困っているから、穴を埋めようとすること。困っている人というのは自分も含めた人々のことであって、シンプルに「困っている人がいるけどなぁ」と思えたところが、自分の仕事なのではないか。直接直すこともあるだろうし、気付いたこと自体を伝えることもあるだろう。そもそも、そこに着目する時点で、自分の役割と言えるだろう。人をよく見ることだろうな。困っている人を探すというより、自分も含めた世界の住人として、「これ困るんだけどなぁってものは直そうぜ」って感じだ。
・友人たちのポッドキャスト「ひゅるるるらじお」で、「Life has seasons」という言葉を聞く。人生に季節がある。ほんとにそうだなぁと思う。自分はまさに防寒着を持たないまま真冬が来てしまったという感じだ。所持しているものをかき集めて、なんとか寒さを凌ぐことになるんだろう。だが、徐々に暖かく、木々が生い茂る季節も必ず来る。思えば、英語のレッスンをずっと続けてきて、あるとき、そこには波があるのだと気付いた。すごく話せると思ったら、どうも上手くいかないときもある。それと似ているかもしれない。沈むときは念入りに落ち込むものではあるが、浮上するときの感覚は簡単に忘れられるものではない。波のように浮き沈みをすることは、一見あらゆることに関連付けたりもできてしまうが、それはまた別軸であったりする。たとえば、沈んでいるときは自分の力や他者との比較に目が向くが、因果が必ずそこにあるとは限らない。ゆらゆらと漂うように、季節は巡るのだと改めて思えた。聞けて良かった。
・1年の振り返りをしてみると、「こんなことあったなぁ」と既に遠い過去に思える出来事が多かった。目標という捉え方は継続性がないのであまり立てようとは思えない。だが、振り返りは時間が掛かるので確かにめんどくさいものの、「ではそれを見て何を思ったのか」という問いから、直近のやることが決まりやすいと改めて思った。ただ、去年の振り返りを見ると、全然地に足付いてないことを書いていた。当時は真剣に書いていたのだとは思うけど、能天気すぎて笑える。もちろん良い年にしたかったものだけれど、ブリコラージュ的な視点だけではなく、エンジニアリング的思考をせずに成されることはないのかもしれないと学んだ。
01.02(木)
・胸の重りは完全になくなるわけではないだろうが、確かに軽やかに思えるというタイミングは訪れるものだ。
・やりたいこと(ブリコラージュ)と、社会の穴としての困り事を目ざとく埋めていくこと(エンジニアリング)は、共存するものかもしれない。どちらかだけではなく、どちらもなのだろう。この辺りは「はたらくこと」の根源になりそうで、軸にしていきたいものだ。
・広義的に「家」を捉えたいと言い続けてきて、その中身がなかなか捉えられないと思っていた。だが、移動する家である「服」もしかり、社会を「壁」と捉えない見方をすることが、そういった「家」の捉え方かもしれない。服は対外的な要素もあるし、家には安心や関係性への問いがあるから。
・呪術廻戦の最終巻を読み終わった。ついに完結したのか。珍しくアニメを見るほど最初はハマっていたが、作中で語られる技や原理の説明が難解すぎて、後半はとりあえず読み切ろうという感じになってしまった。宿儺がほんとに好きじゃなかった。全てを見下す系のヴィランは思考に穴がありすぎて、語りがおもしろくないんだよな。でも、色んな語りが作中にはあって、難解さで見過ごしていることもあるだろうから、またそのうち読み返してみたい。
01.03(金)
・早朝に隣の教会が鳴らす鐘の音に今日は気付かず眠り続けた。とても嬉しい。
・移動生活してきて積み重なった知見を持て余している感覚があって、これは困りごとを抱えている人の役に立てないものだろうかと考えている。
・主にオンラインで対話を繰り返してきたここ数年なので、オンラインでの距離感に過剰適応しているような気がする。対面での対話であったり、場を開くことであったりは、帰国後に徐々に慣らせていった方が良さそう。友人のように気が合う人は大丈夫だが、気を遣って話す相手であったりすると、数日は回復に充てるぐらい消耗する。
・説教とアドバイスほど、人間にいらないものはないのではないか。自分でもわかってるのにできないことがあるからこそ、人は困っているわけなのだから。
01.04(土)
・「無力さ」については考えていきたい。
・騒がしさの中にある秩序。そういう生き方をしていきたい。
・安心を求めるのは、回復のプロセスなのだろうか。安定ではなくて。たとえば、不安を解消しようとしても、日々やることはあるわけで。だとすると、不安であやることを保留にしたまま、先に大事なことをやることが、回復に繋がるような気がする。その後にやることをやるみたいな。
・対象との対話が成されていることか。全てを見つめることなどできず、どこかに焦点を当てるプロセスが、そういった対話を生み出すのかもしれない。そういった写真と文章でありたいものだ。
01.05(日)
・ベトナムは社会主義の国というが、お金は流通しているわけで、民主主義(資本主義だろうか)との違いがあんまりよくわからない。
・今日はなぜかバイクタクシーのドライバーに運転中に話し掛けられる。最初のドライバーは到着間際になって、ベトナム語で「なんとかエムバペ」と言ってくるので、まさかフランス人サッカープレイヤーの「キリアン・エムバペ」の話じゃないよなと思い、「わからない、英語で言ってもらえる?」と言うと、少し間を置いて、「キリアン・エムバペを知ってる?」と英語で聞かれて、ほんとにサッカーのエムバペの話だった。突然すぎる。なんでエムバペなんだ。「知っている」と答えると、満足そうに頷かれて会話が終わった。
・人物を撮影することは、「ポートレート」と言われている。思えば、自分はこの「ポートレート」という存在との距離感をずっと計りかねていた。簡単に物語性という言葉で語られやすいことにも、もどかしさを感じていた。果たして自分は「ポートレート」を撮りたかったのだろうか。そう問い直してみると、自分は「ポートレート」を撮りたいのではなくて、日常の発見であったり、対話が成されたりしたプロセスの先に、「撮る」が構えているのであった。どこを出発点をするかは自分にとって大事なことであり、その結果がどのようなものであれ、始まりを捉え続けることが、何かをつくる原動力なのだと思っている。
・帰国して生活の軸を作っていくとき、一軒家を賃貸でなるべく安く借りられたらいいと思っていて、探してみるのだが、なかなか見つけるのは難しそうだ。集合住宅は睡眠衛生を考えると、選択肢から外しておきたい。そうなると、俺はどこに住めばいいののだろう。人に聞いても個別性が高すぎるわけではあるが、帰国したらそういう生活のスタイルを見て回る必要性がありそうだ。