10.14(月)
・言語を知る楽しさは、とっくに無くしていた。スペインでは英語を優先していたのはあるけど、後半は苛立ちすら覚えるように、スペイン語にまるで興味を持っていなかった。こうしていろんな国に来ているとき、少しだけ単語を知ってみるのは豊かなことかもしれないと気付く。
・ジョージアの近隣国、アルメニアやアゼルバイジャン、トルコあたりも行けたらいいな。ビザ関係は考えないとだけどさ。
・EUから出国したからか、chatGPTの「高度な音声モード」が実装されていた。早速試してみる。おもしろい。スムーズに会話できる。ただ、じっくり考えたいことや調べ物は、今まで通り文章で送った方が良さそう。自分は書くことで考える人であるし、話すときに間がいるけど、音声モードでは黙ってしまうと、chatGPTが喋り出してしまう。音声で話すときは、哲学的な対話や単なる喋り相手としてと使い分けた方が良さそう。この辺はまだまだ試行錯誤だな。
・Tbilisiには、村上春樹のグラフィックアートがあるらしい。現地の人に聞いて、滞在中になんとか発見したい。
10.15(火)
・なにかしんどい出来事が起こったら、経験者に話を聞くというのは、惑わされて戸惑うこともあるだろうけど、意外とやってみてもいいかもな。
・ケアとは、パターン化した認知で捉えることを解きほぐすことなんじゃないか。「きっとこうだろうから」ではなく、その目の前の人を大切に思うときの態度は何であればいいのかを考え抜くところから始まる。
・服装を選ぶ要素って何なのだろう。何がオシャレで、センスがあるのか。ただオシャレやセンスは、どうしても外的価値を内包するため、帰結にそれがある状態を仮定して考えてみたい。最初から目指しているわけではないけど、結果的にオシャレであり、センスが養われていく状態であること。単純にその人が好きな服を着ているから、というわけではなさそう。内的な動機は関係しているだろう。たとえば、「この服、必要のないボタンが多すぎて、だけどそこが良いのよ」という人がオシャレでセンスがあると思えるとき、その人の見方(生き方)が選び方に出ている。そうして結果的に側から見ても、その人に合っている服装になっているという仮説はどうか。
・服の選び方の順番を整理しておく。じっくりと観察して、まずは単体で心惹かれるものであること。その後、着心地を予想して完璧でなくとも、ある程度は許容できるならクリア。最後は今の自分を冷静に観察して、今この服は自身の中にやってくるものなのかを見極める。そこまで観察して、流れが来ていると思ったら、すぐに買う。
10.16(水)
・考える土台がない人に対しては、知性として向上させるとかより、予防より予備というか、転んだときに毎回できることをする、そのバックアップを持っておくことなどによって、だんだんと育っていくかもしれないよね。
・想定内の反論は、”イラつき”という反応が出る。想定外の反論は、 ”黙って言葉が出なくなる”という結果に至る。だが、そうやって想定内・外の構造を認知してみると、どちらであれ、こういった”伝わってなさ”から発見ができる。
・話の筋をまるごと否定すると、対話は終わる。だが、「その世界線だとどう見えるの?」と好き嫌いではない軸で見てみると、その先には発見がある。
・たとえ、反論されても、伝わらなくても、また語り直せばいいのだ。わからせるのではなく、そういった構造を受けて、そこを起点に語り始める。戸惑ったっていい。ただ、受けてそこからまた問い始めるんだ。
10.17(木)
・独立した初期は、確かに頑張っていた。”はたらく”に関する一定の思考に染まることで、生き抜こうとしていた。だが、また問い直している今、果たしてそこに回帰したいのだろうか。とてもそうは思えないんだよな。過去を肯定も否定もしない。その上で回帰せずに、生きのびてみたいのだ。
・立脚点とは、原点回帰の思考ではない。どうなりたいかではなく、どういうものがあるのかを素直に見つめることは、現在を受け止めて、そこから発見を紡ぎ出していく行為である。
・「真面目に頑張っちゃうこと」への違和感。そこにある、「頑張って向上させることに喜びを見出せる」という前提が忘れ去られているから。決して、全人類に備わっている感覚ではない。自分は「真面目にしたくない」というか、「認知を固定化したくない」ということなんだろう。
・なぜ「怒ってくれる人の必要性」に納得し難いのか。それは自身の態度の話だと思うからだ。おそらく、怒ってくれる人がいることによって発見があり、変わっていけるのがその意見の本筋だと思う。その変化の効用は同意するけども、それは外部からの刺激をどう設定するかじゃなくて、自身の態度によって、いくらでも発見と変化はしていけると思うんだよな。そもそも、他者の人生に口出しする人が既に多すぎる。だから、「怒っていい」となると、そういう人たちは大義名分を得たと思って、正義感を暴走させる。怒る人たちは気持ち良くなっちゃってるのが問題だよな。
・“怒られる”という構造の関係性が既に嫌なんだ。透明性があり、素直に対話できる関係性であれば、”怒る・怒られる”という構造になり得ないわけなのだから。では、誰からも言及されず、裸の王様になって堕落して良いのか。これは立脚点の話である。自身の態度次第なのだから。
10.18(金)
・信号待ちのドライバーに話し掛けている人たちがいて、麻薬でも売ってんのかと思っていたら、近くのコーヒーショップの案内カードを配っている店員だった。
・Tbilisiのメトロは深いと聞いていたが、大江戸線なんて比べ物にならないぐらい、深かった。そして、エスカレーターの速度が早すぎる。結構コツがいる。さらに、エスカレーターの監視員というか、スタッフがいた。すごい、そこで雇われる人がいるんだ。当然のようにスマホをいじっている。
・駅前に不法占拠のマーケットが栄えまくっている。物凄い文化だ。ずっと、服のシステムに疑問があって、なぜ服は必要品なのに高くなっていくのかがあった。だが、こうして絶対に清潔ではなく、乱雑に並べられている服のように、社会主義的に服が雑に取って代わられる状態を見ると、服の在り方について考え直したくなった。
10.19(土)
・自分は共感することが少ないのかも。「うわぁそれな」みたいに、まさに自分の考えに近しいことを人が言ったとき、共感というか、発見の喜びをしているんだよな。
・年齢を気にする、真面目さ、その辺を尊重するのは難しい。なぜなら共感ベースで尊重しようとするからだ。発見ベースだったら、そもそも尊重とか考えずに、結果的におもしろがれそう。
・FC Dinamo Tbilisiの試合を観に行く。チケットが400円ぐらいだった。試合開始の10分前で、何の横断幕もなくて、コアサポーターも全くない。席はびっくりするほどスカスカだ。ボールボーイが、試合中に隣のボーイとパスしあって遊んでいる。だけど、ボールが必要になりそうなときはピタッとやめて、ボールを渡せるように備えてる。子供のときからこうして自律して考える判断できることが良いなと思った。試合は快勝だった。
・ほんとにそろそろ帰る家を探さないとなぁ。
10.20(日)
・ほんとに、わざわざ傷付けたり、否定をしたりしなくても、色んなところで挫折しては傷付いて、そこから何かを発見していくものだ。それよりも、共にありたいと思える人たちと、どのように持続的な関係性を紡ぐのかに着目したい。
・洗濯物を干していると、この前噛まれた猫じゃなくて、常駐スタッフの大人しい猫が近くで寝っ転がって、ゴロゴロし始めた。かわいい。撫でたいが、学習できるのが人間なので耐えた。その辺に落ちている桶の縁に溜まった、何日か前の雨水をめちゃめちゃ飲んでいたので、やはり触らない方が良さそう。
・暮らすって、改めてどういうことなのだろう。ずっと半透明で生きてきた気がする。それは良い悪いではなく、フラットにそう思う。