08.26(月)
・困惑の形には一般性がある。それは丸っきりの共感ではない状態でありながらも、他者を分断せずに繋ぐ方法ではないだろうか。たとえば、何かしらの創作物を作る人と、作らない人と分ける語り口がある。自分はクリエイターであるという自負が、自分は特別であるという執着に変わっているようで違和感があった。だが、確かにわかりやすく何かを作っていない人だとしても、何かを作る際のプロセスで生じる困惑は、その人が普段の生活で感じる困惑の形と共通点があるのではないか。だからこそ、単に作る人と作らない人に分けないことによって、対話の余地は広がっていく。
・ずっとデジタルでしか撮っていなかった以前の自分が想像できないほど、今はフィルムに染まっている。
・同質性の裏返しは排他性とはまさにね。
08.27(火)
・格好としてはこだわっているけど、なんか全体的に魅力的じゃない人たちって、余白のなさから来てるんだろうか。隅々までガチガチにその人なりの外見(=社会)を身に纏おうとしている。たとえ完全じゃなくとも、その欠けた部分は中身であったりが補うし、それでも人はどこか欠けているものだ。そこへの理解がない感じが、社会に合わせて完璧な自分になることで安心しようとしているようで魅力的に思えないのかもな。
・単純化は人間の性だろうね。特定の立場に立つことで安心感を得る。
・否定した価値観を何よりも自身が内包化してしまうことってあるんだろうな。
08.28(水)
・倫理で考えると手詰まりやすいのか。ブリコラージュ的に生き延びていく。嫌なもんは嫌だ。バッティングすることもある。だから時には猫ちぐらのようなアジールに帰っていく。でも我々は同じ星に生きる生命である。だから扉は閉じない。そしてまた行ったり来たりしていくのだ。
・批評はそういう押し付けるものではない。批評と否定の違い。押し付ける範囲。逆に言えば、肯定的なことであっても、押し付けるってことはある。肯定・否定と分けるのは違う。そこがもどかしさであるなぁと思う。
・嫌いなことすら許されないってキツイことだからね。
08.29(木)
・望むに関わらず、巻き込まれることもあるよなぁ。
・ぐっと見つめる目線を持つ人を撮りたい。
・跳ねるように歩くって、機嫌良く見えるものだ。
・全員と仲良くすることはできない。どうしたって思いがけず人と出会い、関わってしまうものだ。だからこそ、持続させたい人とどのような関係性を築いていくかに着目したい。
08.30(金)
・問いに立ち戻って帰っていくこと。
・模様替えにおけるセンスのように、置き換えるということが、思想や対話には必要なんだろうね。
・Bilbaoの風景は、なんだか関東だと高尾山、関西だと芦屋あたりの雰囲気に似ているような。やっぱりスペイン北部は雨や湿度があるからか、日本の環境に似ている。
・Guggenheim Bilbao Museoa(ビルバオ・グッゲンハイム美術館)で展示を観る。奈良美智の展示がやっており、じっくりと観てみた。好き嫌いでいうとわからないが、時間をかけて観たという体験にはとても満足感があった。作品をドドンとでっかく展示するのは楽しそうだ。
08.31(土)
・写真は誤読を生む。瞬間を写すから、その前後は写らない。だからこそ、そこには瞬間の儚さがあり、その儚さは文脈を通すと見られなかった瞬間を写せる可能性が広がっている。人間は文脈を見てしまうものであり、そこを唯一飛躍させられるのが写真なのかもしれない。
・写真には前後があるのだから、その文脈を無視するのは違うのではと思っていた。だが、確かにその葛藤は常にありつつ、だからこそ写真はリアルかフェイクかではなく、確かに通しの文脈で見たら誤読かもしれないけど、瞬間で生まれたものを止めて観察することで、そこから生まれる新たな文脈を形成できる可能性に開かれている行為なんだろう。
・マイノリティがアイデンティティになってしまっていると、弱さを武器に戦う道になるんだろうな。
・そうか、写真も営みなのか。書く、読む、対話するに組み込まれた営みのプロセスだ。
・置き方、見せ方として、そこだけ狙う必要はないが、「ここは言及されたいな」というポイントを実際に言及されるかが一つの基準になったりするかもな。
09.01(日)
・転々として暮らす良さは、ほとんど掃除しないで済むってことだよね。
・コモンとして、あえて共有地に置いておくっておもしろいかもな。いいものや議論の余地のあるものは置いておく感じだ。
・街を立体的に見下ろしてみることって、大事だよな。
・掛け合わせる良さは、ひらめきがあるって感じかな。
・スペインへ来たのも、そうしないと次に進めないという感じだったからだよね。区切りというか。そこでどうするとか、何がしたいとかより。
・スペインでの暮らしを今後の自分はどのように語っていくのだろう。