2024.08.12-08.18|雑記帳

08.12(月)

・12時頃に昼寝をする。やっぱり変な感じだ。

・改めて、もう8月だし、スペイン生活も残り数週間なのか。月並みだが、ほんとに早かったな。

・30度以下だと涼しく感じてしまうぐらい、気候変動に慣れきっている。

・たぶん”岩根”って足にタトゥーをいれているバイクの人をバスから見かけた。まさかの”男根”じゃないよな。いや、”岩根”なんて言葉はないし、やっぱり”男根”なんじゃないか。

・現像が仕上がってくる。新しく使い始めたOlympus XAの写りは、なんだかんだいい感じだった。だが、結果はまあいいとして、やっぱり撮る際の体験がどのようなものであるのかが重要な気がする。

08.13(火)

・「運命なんだよ」って自身に言い聞かせることは、弱々しい従順な態度かと思っていたが、現状の流れを受け止めて、希望を見出していく態度でもあるのかもしれない。

・人との関係において、最適解を探そうとする罠があるような。

・フィルムでバシバシと数を撮れてしまっていいのだろうか。それはデジタルでいいんじゃないか。たとえ、タイミングを逃してもゆっくり撮る方がいいんじゃないか。

・ヨーロッパの街並みに飽き飽きしてしまった。ただ、外から来た人はやっぱり感動するんだろうか。これは飽きなのか。発見に対して鈍くなっているのか。認知機能をオフにして、日常をスムーズに暮らせるようになっているのかもしれない。

・マジで何もしない日を週1で作ってみようかな。頭のスイッチをオフにすることに慣れたい。そうなると、ドラマやYouTubeを毎日見る時間はスイッチを切るために、意外と大事であるような。

・ポテチをパーティー開けしたときの非日常感。

08.14(水)

・寂しさや欠落感について、「超相対性理論」を聞きながら考える。最近観ているドラマがないからと観始めた「YOU ー君がすべてー」にどんどんハマっているのだが、愛のためなら人を殺してストーカーもするサイコパスの主人公を見て、「彼はサイコパスだから(俺とは違う)」と簡単に言い切れないよなぁとポッドキャストの話と重なるところもあった。寂しさがあるからこそ、何かを作るということは確かにある。寂しさ=良くないという単純な二元化はできない。足りている状態があり得るのかという問いもあり、それが果たしてベストだと一辺倒で良いのかという問いもある。

・久しぶりにデジタルで撮った。フィルムだったら撮らずに見送るところを、とりあえずと撮ってみることで、思いがけず良いという発見をする可能性が増えるのはデジタルの良さだなぁ。

・タトゥーのデザインが一生決まらない。

・今の宿がハズレすぎてしんどい。隣の部屋(のアホ)に嫌だと思ったことを伝えてみる。謎の言い逃れをされて思ったのは、人間の共通概念だと思っていたこが、実はそうではなかったときの空虚さとの向き合い方は、とっても難しい。”人種が違う”と片付けるのは全くもってナンセンスだと思うのだが、そう片付けてしまった方が、頭の中では整理がつきやすいのかもしれない。でもしない。うわ〜今日はしょんぼりだな。

08.15(木)

・”不合理思えることなのに一貫性を保ちたい”という心理が働くことってある。たとえば、不機嫌であったのに急に楽しくしたっていいのだし、不機嫌なときは不機嫌な態度のままを保ち、外から見たときの整合性を合わせなくてもいいんじゃないだろうか。

・抽象的な話は、個人の経験の話に集約することを一旦分散させて、共通の問いとして考えていけるようにする行為なんだろうね。

・寂しさを人で簡単に埋め合わせようとすると、それだけ一時的には凌げるんだけど、長期的には地獄だよなぁ。

・たまにはと少し遠めのスーパーで買い物をすると、自分の番でなぜかレジのシステムエラーで会計ができなくなった。店内は空いていたけど、流石に何十分も会計が終わらないと、段々とレジに人が詰まってくる。機嫌も良いし、特に急ぐこともないから待ってみる。人が詰まってきても、一切申し訳なさそうな素ぶりを見せず、焦らず直そうと色々試すスペインの人を見ていると、おもしろかった。こういうとき、日本だったらキレるジジイや謝りすぎなぐらい謝る店員とかでカオスになりそう。結局、諦めて商品を棚に戻して、いつもの近場のスーパーへ行く。先ほどのスーパーで見かけた人もこちらに来ていた。

・佇む木の写真は撮っていきたい。

08.16(金)

・朝読書の習慣、結構合っている気がする。頭が回転してきて、日中のやる気が出てくる。

・めっちゃ言葉が湧いてくるし、話したいし、書きたい。やっぱ俺は毎日書ける人だよ。

・意味から逃れようとすることも意味になるという、意味に集約する説は、全くそそらないよね。

・”結局全ては〜である論”が嫌いなのは、似ているところを自分も言っているんだけど、言葉として美しくなくてそそらないから、違う言葉で表現しようとしてるじゃんってところをぶち壊された気分になるからかな。もっとおもしろい言葉で表してみようぜってなる。遊んでみたいんだろうな。

・お互いに噛み合わないまま、その筋をお互いに保ちながら変化して、対話していくのもひとつの形としておもしろい。

08.17(土)

・散歩をほんの少しでもすると、思考がゆるやかに混ざり合う。やはり数分であっても散歩は毎日した方がいいわ。

・傷に対する欠落感は、手っ取り早く誰かに埋めて欲しいと思ってしまうものなんだろうな。だけど、他者はそんなに都合良いものではない。だからといって、孤立して生きれば良いわけではない。きっと、なんとか色々な人に手伝ってもらいながら、ツギハギで生き延びていくものなんだろう。

・何かの議論の薄さや曖昧さを指摘するだけではなく、それが大衆に広まっているならば、深めて考えていく余地があるということだろう。そこも含めて語っていきたいものだ。

・「しちゃいけない」とか「思いたくない」というか、「どうやら自分はこうらしい」と、ある意味で自身で少し遠くから説明して分析していく態度がしっくりくるな。

・影や木が佇むところ、人の後ろ姿は撮り続けてみよう。

08.18(日)

・写真は写真として残された時点で、自分の手を離れているという解釈はおもしろい。だとすると、だからこそ写真は撮る際の体験がすごく大事で、そこをどのように現象へと巻き込まれようとするのかという態度が問われるんだろう。そして写りは結果であり、そこに対する自身の解釈はあるが、見る人がどう見るかはまた別の話である。誤読される可能性もあるが、それは対話だって同じだ。そのある意味で誤読を受けて、また自身の解釈が変わる。だが、撮った際の記憶は変わりつつも、基本はそこに留まっていく。つまり、結果は変化し続けるが、撮る際の体験は滞留する。だとすると、体験に出会ったときの態度は問い続けるとして、それを写真の結果自体に直接含めることはできない。できないからこそ、そこをつなぐ何かは別軸で必要になる。それは書くことであったり、対話であったり、直接フィードバックすることであったり、個展を開催してみたりなんだろうな。まだまだ試したり、考えたりする余地がある。

・具体と抽象を行き来するって、人とやり取りを生むプロセスでは必要なことなんだろうな。

・文章における読者への寄り添いのバランスについて。最初にその人の視点を提供する。その後に、「この人こうらしいんですよ」と他人行儀で説明するようなものを書く。順番は関係ないが、具体(主観)と、抽象(客観)を行き来することが、やりとりを生むのかもしれない。

・ただ、抽象(客観)としての一般論には興味はない。とはいえ、深部では一般論を語るとしても、それは独自の言い方であればおもしろいものになりそう。

・関係性は築いていくもの。戦うこともあるが、いい戦いもあるのだろうか。言い争いを避けようとするより、仲直りをもっとカジュアルにできるようにする方がいいかもしれない。許すというか。