07.15(月)
・コミュニティとの関わり方として、各自何かを持ち寄ってきて、そして各自の環境へ去っていくこと。そういう付かず離れず、行ったり来たりの関係性がいいと思う。
・成熟は年齢によって成されるものではなく、身に付けていくような技術であるんだろう。
・たとえば、技術も、社交力も、やる気もないけど、仕事があって生きていけるということが、なんで難しいことになってしまうんだろうか。もちろん、経営者や同僚からすると困るとは思うが、そういったそもそもを考えてみたくなる。
07.16(火)
・ようやく来月の予定を決める。そうなると、自然とその後の予定もうっすら見えてくる。そんなもんだと体感しているのに、どうしても不安を見つめてしまっていた。
・集団において、同質化していく様子を見るのが少し気持ち悪いと思ってしまうのは、なんでだろう。偏った集団の一員になってしまうという危機感だろうか。
・アリカンテに行ってみよう。ムルシアは意外と小さくて、さっそく飽きてきた。
・今更って感じだが、寝室と仕事部屋は分けたいよな。
・”まちづくり”という言葉ってなんやって感じだ。なんだかうさんくさいというか、街をハックできると思っているようで嫌な感じだ。
07.17(水)
・日本に帰ったら、気になる活動をしている人や場所には、とりあえず行って見てみるようにしたい。特段何かするわけでもなく、見てみたい。それはある意味で、カズオ・イシグロの言う「横の旅行」でもある。その文脈は無象の人々と出会う「縦の旅行」が大事なんじゃないかという話だが、今は縦の旅行を思いがけずしてしまっているからこそ、横の旅行もしてみたくなったのだ。
・「好きじゃない」という語り口では、自身の価値観を固定することに執着しているようで、「今は仲良くなれない」という言い回しの方がしっくりくるな。
・まさかの空調壊れていて最悪のバスだ。窓も開いてない。地獄や。
・スペインにおいて差別ではないかもしれないけど、会計の際などにスペイン語で何かを言われて、英語で応答すると「ふっ」と笑われてスルーされることがある。マイクロアグレッションなのか、何なのか釈然としない。同じ状況の人がいたら、話し合ってみたい。
・ありあわせのものでやっていくことだよな。今ある装備を最新のより良いものへと整えようとすると、資本主義の中から出られなくなる。
07.18(木)
・編集者とタッグを組んで、ものづくりしたいと思い始めた。勝手に作るし、アイデアもあるんだけど、どこかに置いておくことへのモチベーションがいまいち湧かない。
・たとえ、既に過去の人々が語り尽くしたような事柄であっても、車輪の再発明などではなく、固有の個人が何度だって語っていいものだ。
・AIの話はフィルムとデジタルの話と似ている。今はデジタルとは別居中だが、AIにたとえて考えてみると、これらを分断して切り捨てたいわけじゃないんだよな。フィルムは最高だが、デジタルは全然ダメだねと言いたくはない。
・フィルムとデジタルを網羅的に語り、その上でフィルムとデジタルを混ぜて、使い分けてやっていけたらいいよね。
・フィルムの現像が終わり、スキャンの結果が返ってくる。新しく「1 Hundred Film 100」を使ってみたのだが、感光しているような赤い線が入っていておもしろい。光は差すものでもあるのに、漏れるものでもあるんだなぁ。
・批評することは良いと思うが、だからと言って、自身を観察者として他者と分けるために批評を扱うのは、フェアじゃないよなぁ。
07.19(金)
・流石に朝まで寝付けないのが、しんどくなってきた。朝から昼までで睡眠時間を確保する毎日。言葉が沸いてきて休まらない感じ。
・何かに対して執着していたくないと思うが、むしろ執着を認めるところから始めて、それらをどう扱うのか考えてみてもいいかもしれない。
・「TAKRAM RADIO」の歌人・伊藤紺さんの回を聴く。普段から言葉の海に潜っている人の言葉はズシッとくるというか、わかるものだなぁ。
・ある意味で、”バッドマナー”であるようなものが、個人の物語だったりする。
・「忍びの家 House of Ninjas」の最終話を観る。海外から見た”ザ・ニンジャ”的な描き方ではなくて、安定して楽しく観られた。世界征服じゃないけど、自分が世界の頂点になる的なヴィランって、もう全く魅力的じゃないよね。もっと個人的な物語があっていいんじゃないか。とはいえ、完全に続く感じだったからどうなるんだろうか。シーズン2に更新してほしい。
07.20(土)
・朝起きて、キッチンで冷蔵庫を開けていると、他の部屋のゲストが音もなく入ってきており、真後ろにいたので、めちゃくちゃ驚いた。こういう咄嗟のとき、大声でも、飛び上がるでもなく、ただ息を呑むというか、声が遅れてくるんだなと知る。「オハヨ、Sorry」と言われる。
・美的感覚と身体感覚のずれ。相手にとっての美的感覚がある。ただ、自身の身体感覚を元に、それらをアドバイスとして受け入れようとすると、合わないことがある。そうなると、新たな解を目指していくプロセスが発生する。そのプロセスを経ずに、どちらかの正しさにこだわるのは、本筋ではない。
・物事をパターン化することで、認知負荷を下げるという話。ほんとそうだよなぁ。わからなさの中に留まることは大事ではあるが、今は認知負荷が多すぎる。だから眠れないんじゃないか。少しはパターン化して負荷を減らしたいものだ。
07.21(日)
・昨日の残りのポテトチップス、シリアル、鶏ハムという、同じ皿に盛ると見た目のひどい、ありあわせの朝食。自身のブリコラージュ的な生き方を表しているような。
・やりかけで結局ずっと手をつけていないことを、途中でやめることも大事なのでは。頭の片隅でずっと気になりつつ、全く手をつけないのだから、保留にしてもいいけど、気軽に断念していくようもしていきたい。
・「プラダを着た悪魔」をなんとなく見返す。何回も観たけど、内容を毎度忘れている。ミランダは擁護するところのないアホって感じだが、今こうした映画が作られることはないだろうな。こういう役が出てくるにしても、何かしらの制裁がされて終わるだろう。ミランダは一貫してそうだし、徐々にアンディもそうなりつつあるのだが、人との関係よりも創作を優先したり、技術や話の深さで人を判断したりしている。そういった結果、たとえクオリティが高いとされるものを作り出したとしても、それはごく狭い世界での話であるし、リソースの限られた現代では簡単にコミュニティから追放されるだろう。人も大事にしながら創作したいよな。じゃないと、過去の自分や傷付いた人たちを蹴落とすことになるし、果たしてそんな生き方をしたいだろうか。