2023.05.01-05.07|雑記帳

05.01(月)

・現実だけが写真ではないが、見せつけようとすることだけが写真でもない。生まれてしまったという写真が、俺は好きだ。

・対抗心や目立つより、素直さを見て、やってしまった、という作品や気持ちを大事にしたい。

・言葉と同様ではある。だから雑記のような写真も存在するのだと思う。

・きっとあえて見せつけることから、見えてくる偶然性はあるんだろうけど。認めがたいよね。

・音から物事を考えてみるの面白い。

・生産者をかじったことで、捉え方が変わることがあるんだろうな。とはいえ、体験が全てではなく、体験してしまうことで失うことに敏感でありたいと思う。共存できたらいいよね。

・「石を拾うようでありたい」という言葉はとっておきたい。

・否定=食べられなかったもの。ただ食べられなかったんだなぁという捉え方っておもしろい。思想の違いがあったとしても、食べられる状態に料理していくことは可能なのかも。

・対等でなければならない、あらねばならないという意識は、その場に貢献することへの強制力となる場合がある。目指すのは対等ではなく、何か態度であるような。引き続き考えていきたい。

・なくはないぐらいの気持ちって、とっておきたいね。

・全員語り得ぬものを失うことをしないでと強制するのではなく、役割として俺はそういうことを模索して手づくりしていくから、お互いに共存できたらいいよね、たまにお互い遊びに行こうや、ぐらいの折り合いがついたらいいよね。そしたら他者を変えようと傲慢になるわけでもなく、自分が作っていくことになるからさ。

05.02(火)

・考えていることを私有せず、公共的に開いていくという捉え方はおもしろい。

・公共性の陰湿さは、アジールを渡り歩くことで、ちょうどよい付き合い方ができるのかもしれないな。緩やかな繋がりというか。

・自分の通った道に印をつけておきたい、置いておく、という感覚は興味深い。

・色々と考えるけど、意図しないコンパッションを受けることもある。ただただそれに感動することも。そこは忘れたくない。

・持論を固めるために、他者を排除するようではありたくないね。

・苦しみを見るけど、浸らないことは確かに大切だ。すぐに意味付けを行うのではなく、じっくりと見てきた先に生まれるものを確かめたいというかんじ。

・愛する相手からの見返りを求めず、変えようとしないって、ものすごく難しい。愛することは対外的な意味と本質的な見守ることの狭間で苦しむことでもあるのかもしれない。

・もうスペイン行っちゃおう。漠然とした不安で先延ばしにしていたけど、なんとかなりそうだと思えてきた。生活をする。地道なことを続ける。撮ったり書いたり対話したり読んだり。うわ、不安だなぁ。なんとかなりそうと不安の共存。

05.03(水)

・作法を身につけるという言葉。学びや技術のような普遍的な原理ではなく、振り返ったらあるものを形作っていく感覚。

・いるときにその場にいる。そうではないときは、その場にいなくてもよい。

・「心は身体を通して言葉を生む」身体が発した「機を見る」という意識を感じ取り、言葉でもって語り得ないものを紡いでいく。

・”のぼせ”が冷めてしまったときに、その物事との関係を終わらせたくはなるが、その土台づくりが終わったところから、見えてくるものも確かにあるんだろう。その冷静な気怠さを蔑ろにしなくてもいいような。

・何事にも、すぐのぼせやすいからこそ、それらが冷めたときに、関係を深くする段階に踏み込むことは、ぜひともしていきたい。

・「普通それはないよ」ではなく、またそこから捉え直す態度が、なんともしぶとい美しさを放っていると感じるのだ。

・見せることで、自分の世界を手づくりするというのは、「小さな公共性を形作りたい」ということなんだろうか。「撮る、書く、対話する、読む」を公共物として、必要な場にそっと置く。そのぐらいの態度で常に見せるようでありたい。

・必然ではない、だけど一緒にいてもいいかなという態度は、愛するということに繋がるような気がする。

・一緒に生きたいと思える距離感。それは最終的に折り合いがつかなくても、まあいいかと思えることなのか。発見だ。

・「芽吹きを感じる」という言葉を淡々と噛みしめるように味わった。

・対話における喋りたさは、聞いて生まれた言葉を発してみたい、そしてそこから派生していくものを見たいという気持ちであるかのような。

05.04(木)

・全体主義的に、自分の思想で世界が全てそうなったらいいのにと思ってしまうこともあったが、自分が作り出した小さな公共物を通して世界を見て、そこから派生する人たちがいたらいいし、いなくてもいいという捉え方になっている。

・岡潔と西加奈子さんを人に薦める率が高い。

・海の生き物って飄々と変わったやつが当然のように生きていて、なんだか嬉しくなる。

・言語優位というものかもしれない。言葉をベースにして想像力を働かせる。映像化する。イメージを使って、記憶をする。

・尊重されることには、慣れが必要なのかもしれない。安心して喋り、そして言葉を噛みしめるように切り返す。そうして初めて聞くことができるのでは。

・おそらく自分は尊重される場にじっくりいるから、デフォルトで好きなように語り、聞こうとする姿勢が育っている。だから尊重されて当然だと、他の場でも思ってしまうのだろうか。

・対話は相手によって引き出されるものでもあるのか。だとしたら一方的に空間を作るのって無理なのかな。だけど実際自分はそこで慣れてきたわけだし。

・合う人は”言葉が好き”という共通点がある。言葉の捉え方への探究心があるから、たとえ書かなくとも、対話してお互いにおもしろがれるのかもしれない。

・言葉にあまり関心がない人たちと、どう接していけばいいんだろう。対話を諦めるのか。それ以外で楽しめることで一緒にいられたらいいとは思う。確かに価値観が合わずともいられる。だけど、対話は必要ない関係ってなんだろう。

・自分を持っているとかではなく、既にそこにあった。自分を深く見つめたら、持ち合わせているものに気付いた感覚。「振り返ったらさ、そこにあっちゃったんだよね」みたいな。

05.05(金)

・じっくり対話できるのは相手次第だ。だからそれが叶わなくとも、生まれた問いを持ち帰って育てることはできる。そしてそれを目の前で書きつけてもいいんだと思う。

・岡潔の妻は彼の対話相手だったのだろうか。どんな部分で愛したのだろうか。お互いに話が通じなくとも、一緒にいれるのだろうか。

・いつでも捉え直せるという態度。還元主義的じゃなくて、ちょうどいい。

・「大丈夫です 敬語」と調べてしまうことに躊躇いがない。

・自分の正しさを手放したときに、とてつもない心地よさを感じる対話の場が時たまある。

・対話での発見の喜びを素直に楽しめば、快活さはきっと後から生まれるんじゃないだろうか。

・対話は確かに体力がいるが、芽吹いていくものがある。散策したくなる。

05.06(土)

・創造力を大事にするには、それを尊重される環境で過ごすことなんだろうな。合う場所に必要なタイミングでいること。

・日本語の特性により、思想が引っ張られる、影響されることはありそう。日本語らしさってなんだろうね。

・やっぱり中判フィルムカメラ使ってみたいな。

・素直に見たものは、誰にも奪われることのない、確かに生きたという感触である。

・からあげクンと竜田揚げと鶏そぼろご飯を買ってしまう。全部うまい。

・存在するものとして、責任を果たしている。責任は背負うものではなく、存在によって果たされていたものである。

・プレイヤーってカチンとくるな。分ける必要あるのか。自分を安心させたいだけじゃないのか。全てのことをやることはできない。誰だって何かしらの活動をしている。人間なめんな。

・空間というものはなく、ただ自分を見つめることで、それを展開していくことはできるのかもしれない。その自他が混じり合ったものを空間と呼ぶのか。

・ドラマチックではなく、ありきたりなものなのだ。

・「私は、大好きな人を抱きしめ、抱きしめられたかった(くもをさがす)」素直さを感じる言葉に惹かれてしまう。体温を感じたいというのは、普遍的であるのだろうか。

05.07(日)

・おそらく、現状に問いを立てようとしなかったり、”いい仕事”至上主義の人たちと今だに一緒にいたら、とっくに心が折れていただろうな。尊重される環境はほんとに大事だと思う。

・気ままに好きに暮らすということを表明しないと”いけない”と感じるのは、思い込みすぎだろうか。

・どれだけ快適にしても、書けないときは書けない。書こうとしてないのか。対話や散策など、何かしらがスイッチにならないようでもない。

・相手によって自分の印象は驚くほど変わる。それぐらい相手や環境によって引き出される人格は変わるような気がする。

・苦しみや恐れを見つめた上で、誰かに目線がいくこともあるだろう。だけど、恐れという友を蔑ろにして、他者を責めるのは、もっとその先にあるものを見てと思う。

・切実な合理性のように、無意識だとしても、人は生きたいと思い、変化していく。思想の違いはあれど、その切実さは見過ごしてはいけないのかもしれない。

・社会的な居場所か。やはり公共性を作りたいぜ。

・仕事(はたらく)とプライベートをきっちりと言わなくとも、ある程度分ける考えも割とありな気がする。混ざることへの固執は避けたいね。

・公共性って良いよねではなく、公共性の怖さについて捉えながら、公共物を作っていくようでありたい。

・自分を素直に見るって、きっとものすごく強いことなのだ。

・生活の良し悪しを判断しようとすると、判断を行うのは自身ではなく、どこまでいっても他者になってしまうのではないか。どんな生活にも、その人なりの合理性がある。

・どのように良い生活を送るかより、枠組みに自覚的になって、どう変化させて、今の自分と共存していくかが自分には大事だ。

・全てを投げるように書いても、こぼれ落ちていくもので、だからこそ、書きつけるように書く。