2023.03.06-03.12|雑記帳

03.06(月)

・夏目漱石いわく、「午前中の創作の喜びが午後の肉体の愉悦になる」。情緒というものは、全身を駆け巡り、時間のつながりが生まれる。

・仕事の役目をこなす、という側面は、清々しさを呼び、そのあとの時間が実りあるものとなる。

・「向上するほど『ような気がする』が自明な『ある』になってくるのです。(岡潔 数学を志す人に)」やんわりと思考したものは、直感として確かにあるものである。それを確定のようにしたくないのは、変わることを忘れていないからであるが、逆説的に「ある」ことを強調しているのだと思う。

・他者に対して、自分の中の”正しさ”から、どうしても”はみだしてほしくない”と押し付ける人たち。世の中に”正しく生きる”って枠が固まっている人が増えているのでは。表舞台に立つ系の人は大変だろうな。

・つくづく思うのは、世界はテロップでまとめられるものではない。各自が自身に馴染む生き方を手探りしていくほかないのだ。

・「なにかは良いこと」だと疑わない姿勢こそ、最も恐ろしいことである。

・エッセイや随筆っていいな。専門知よりも、生きた人間の情景が浮かぶような日々の記録を味わいたい。

・子どもを持つ持たないにしても、子どもを自分の欠如感を補うために利用するようではありたくないと強く思う。というか、もし利用してしまう意識があったとしても、せめて子どもに対して、人間としてフェアでありたい。素直さを隠さないこと。「あなたのためを思って」なんて都合良い言葉で、隠すようなことはしない。

・「愛情や心配という”おせっかい”が良いこと」だとなると、一転して危ういものとなる。とはいえ、覚悟を持ってする”おせっかい”は、人を癒す手助けになるんだろうな。

・人は思った以上に、どうしようもない状況に立たされているものなのかもしれない。過去の自分がそうだったように、考える手立てが何もないこともある。同情などではなく、どうしようもないことへの理解は、どこかに繋がってくるように思う。

・尊敬とは相手をそのままで見ること。人間性を見ること。受け入れなくとも、まずは立体的で剥き出しの生を見ることが、尊重への始まりであるような。

03.07(火)

・自分がこれだと思って捉え直している感覚はなんなんだろう。それは正しさではないような気がしていて、信頼のような感じがする。最近は”直感”という言葉が気になっていて、その重要性が身に染みたのだろうか。

・人間は誰しも他者に負っており、返すことのできない恩義を背負っている。

・「日常性と生活世界は、人々が一人の人間として自律し自由に生きることと、相互に依存しあって共同、協働することを同時に可能にする場である。『他者との連携』と『個的自律』を両立させるという課題は、諸個人諸主体のあいだの分断化・流動化が促進される現代世界に生きる人間にとって、最大の難問の一つだろう。それは言い換えれば、自己の生の実存を豊饒化しながら、社会的連帯を築きあげることにまつまる困難である。(アフリカ潜在力が世界を変える)」まさに他者と連携しながら孤独を抱くことが塩梅だと思っている。それは実現不可能な理想ではなく、各自が地に足つく範囲で実現できるものだと思う。だからこそ、世界を捉え直し続けるのだ。

・「他者を排除し否定することを通して、『正しさ』『絶対性』『完全性』を追求する自己像への懐疑であり、その結果として私的創造を担保した新たな他者との連携とそれに基づく新しい次元の公共性の創出である。(アフリカ潜在力が世界を変える)」私的創造と書くとなんだか自己利益の確保感が出てしまうが、孤独と言い換えて捉えている。

・随筆や散文、雑記などに、共存と孤独の本質がありそう。

・共存させながらも、根拠の比重をどれかに寄せることもできるのか。東洋と西洋で混ぜながら軸は東洋であるように。

・人類学視点はめっちゃ大事だ。なんならほんとに根源的なものであるように思う。だけども確かに、日常に転がっているのは現実であることを忘れてはならないのだと思う。そういう曖昧で不確かなものを繋ぐのが、直感であり、地に足つけるような孤独であるように思う。孤独についての問いが捗るな。

・尊敬とは距離を図ることであるような。観察してみる。恐れというものでもある。何も無条件にニッコリと尊敬するわけでもなく、距離を保って観察することもできるのであろう。

・無邪気さが良い方向に作用することがある。その気持ちを冷笑しないようにしたい。

・杉の近く歩いてみると、溺れるぐらいの分泌物が出た。くしゃみしてお腹が空くのは、唾液が出るからなのでは。

・桜の開花を感じられるような時間の流れで生きていたい。

03.08(水)

・思考の”しなやかさ”って、とても大事だ。

・往来することで、どこにも所属していない感覚は時に辛いが、世界と直接つながる可能性が広がっていると言える。

・孤独を知っていることで、誰かの孤独に触れることができる。そうして初めてつながってように思えるときがある。

・「土地ならしがなくて、どうやって家が建てられるのであろう。計画的なことだけをして、どうして表現者としての素直さを保てるのか。(どこにも属さないわたし)」長い道のりであるが、素直さを保つことが生み出すと思うし、それを信じてやっていけばいい。

・「人はおこなったことで判断されるようだ。でも、人生の半分近くは寝ている我々だから、本来ならもっと夢の話もあろう。(どこにも属さないわたし)」そういうものなのかもしれない。地に足つけながら、空を見上げること。

・言語は頭で学ぶものではない。相手の音を聞く。メロディーやリズムを聴くこと。意味を理解するよりも、聴くことをやってみよう。

・問いによって自己を突き放すことが、かえって、自己の探究を深めて、他者と繋がることができるのだと思う。

・決められないこと、わからないことに正直であること。

・曖昧さは、くくられた境界線を柔らかく溶かしていく。

・自分に真摯に聞いた文章は、淡々とした印象を受けるのかもしれない。他者に怒りや辱めを与えような書き方ならば、それによって”正当な自分であること”をアピールしている側面があるように思う。だから淡々と。それは温かいものとは矛盾しないと信じている。

・現在の状況で、今の自分の活動範囲で、いかに最善を尽くすのか。大きさではなく、どうような役割を果たすのか。それが問われている。

・美の体験が人生を意味のあるものにすることができるとはまさに。活動だけではなく、消費するわけでもなく、内面に立ち現れてくる美の感覚を抱くことが、意味を持つようになるような気がする。ついでに孤独も意味であるのかもしれない。

・孤独を経て生まれたものを自身で素直に観察したいからやる、という感覚。表現で世界を変えたいとか、作ることで見せていきたいって思いはあんまりないのかもな。全くないわけではないけど。孤独によって、自分と他者の境界線が溶けた隙間に見せたい気持ちはあるな。そこに刺さることのみを探求していきたい。見せたいのは誰かではなく、共存するそのラインに刺したいのだと思う。

03.09(木)

・AIができないことは創造性などではなくて、塩梅なんじゃないか。ほどよく。適度に。その割合は毎度変わる。狭間で生きることは、人間の証であるように思う。

・人は壁の中ではなく、隙間に住んでいる。隙間というものが、人を成熟させる。

・罪の意識というものは、人間性として大切な気がする。

・資本主義のようなデカい仕組みになると、自分ごと化しにくいんだよな。いくらその通りと思っても、生きる実感を得るためには、なかなかやってられないことがある。だからこその土着。今いる範囲でできること、行動以外にも美の体験を経ていくこと。それが繋がるんじゃないかと思う。

・ほんとに人生には笑ってしまうぐらい問いがあるな。

・誰かのライブ配信がこんなに落ち着くとは。

03.10(金)

・人間ってものすごい体力があるんだなぁ。

・ときには共感のクラッチを切ること。

・「もっと苦しんでいる人がいる」という比較による態度は、底無し沼のように沈んでいくだけだと思う。もがけばもがくほど、沈んでいく。体力がなくなっていく。だけども、先人たちの手紙のような声は、それが苦しみの声だったとしても、温かく感じられる。

・せざるを得ない状況になると、むしろ淡々とやっていくものだ。原動力というのは単純だけど、ある意味”せっかくだから”と重い腰を上げるきっかけになるんだろうな。

・自分が選んだ本だからと読んでくれるのは嬉しいと同時に、自分も流れがあってのことで、この循環のようなものが、ただおもしろい。

・違うものに対峙した時に「それは違いますよ」と安易に言わないのは、言えないのではなく、すごく柔軟な態度なのではないか。いいじゃんそれで。

03.11(土)

・曖昧でわかりにくいことをやる。評価を突き放す必要ないが、自分の孤独から生まれるものを信じて、それがたったひとりの何かを生み出したらいいという態度。

・対話がじわじわと効いてくる。ただ、対話をして、孤独に持ち帰る時間は必要だと思う。

・性に合っていること。それが”はたらくこと”と必ずしも一致するわけではない。ましてや対価をもらう仕事としてだと特に。

・素直さとは、自分の思ったことをなかったことにしない態度である。

・「どうなんだろうね、最近の文章」ってフレーズがなんかいい。

・苦しみを共有したときに、過剰な共感がしんどさに繋がるときがある。共に苦しむという態度によって、罪の意識を植え付けられることもある。だからこそ、淡々としながらも、ただそこに”すとん”と居てくれることは、どんなに嬉しいことだろうか。

・信頼は責任を背負うことなのかも。舞台から飛び降りる覚悟でとはまさに。信頼せずそのままであれば、それが続いたかもしれないが、信頼することで変わっていく世界もあるんだと思う。

・恥じらい。罪悪感。悪びれながらも、へりくだることはなく。それが美しい人間性であるような。

・素晴らしい本たち、静かな夜に寄り添ってくれる音楽、会話に混ざっているようなラジオ、対話してくれる人たち、今まで受けた温かいもの。これらがあって、どうして孤独と公共の塩梅が取れないと言えるのだろうか。小さなことでくじけて不安になってしまうが、孤独を抱えた1人の人間であることは避けられない。ただ、それは1人でもないし、誰かと一緒でもないような感覚だ。人生は問いを与えてくれると思う。

03.12(日)

・「距離を取らないと自分が崩壊してしまうならば、その距離感は誰にも侵害されるものではないと思う」という言葉は、すごく嬉しいものだった。

・言葉というものは、必要な人に届く。だから伝わらないのは、わかりあえなさでもあるが、たまたまそういう状況ではなかっただけなのかもしれない。

・孤独は人生であり、公共は生活である。これらは似て非なるもの。孤独と公共の共存はほんとにテーマになりそう。孤独があるからこそ生まれるものがある。だけど時には開くこと。

・「苦しんでいるときに、もっと希望を持った方がよい、などといった助言を受けることがある。だが、こうした言葉を耳にするとき、やり場のない憤りを感じることがあるのではないだろうか。用いられているのは「希望」という言葉だが、聞く者は、そこで意味されているのは願望にほかならないことを敏感に感じ取っているのである。危機を生きる者は、願望のはかなさを知っている。真に希望が近く感じられるとき、私たちはそれを「持つ」とはいわない。希望を「抱く」ように感じる。時を惜しみながら、今という瞬間を抱くように、自らに訪れた希望を胸に抱く。(若松英輔「光であることば」第1回)」希望は単なる楽観的態度などではなく、立ち現れてくるものだと思う。時にどうしようもないほど、溢れてくる。変わってしまったことを苦に思うこともあるが、”だからこそ”の部分が自然と出てくる。それが希望を抱くことなんじゃないか。